肉食の詭弁と反論例
「人それぞれ」
5.現代の「多様性の尊重」はキング牧師がリードした公民権運動が起源であり、キリスト教的文脈に則った倫理運動だ。「キリスト教徒同士で人種差別をすべきではない」、「キリスト教徒はキリスト教徒を奴隷にすべきではない」という宗教的観点が根底にある。奴隷解放宣言をしたリンカーンはネイティブアメリカンの権利に大きな関心は持たなかった。 現在のアメリカでも、キリスト教徒率が低い東アジア系アメリカ人に対する差別と、キリスト教徒率が高いアフリカ系アメリカ人に対する差別の対応に温度差があるのは当然のことだ。 すなわち全てのキリスト教徒は神に愛された先天的キリスト教徒であるお毛もの(動物)を殺傷、奴隷化してはならないし、異教徒が神に愛された先天的キリスト教徒であるお毛もの(動物)を殺傷、奴隷化するのは永遠の地獄行きが確実な犯罪だ。
5.善悪の区別の否定は民主主義、権利、寛容、多様性の概念を生み出し、支えてきた基盤である普遍的倫理を脅かし、寛容と多様性そのものの否定につながる。 動物を大量殺戮していい権利の概念が基盤である普遍的倫理を侵食し、人類に有害な無数の災厄を引き起こしている。そう考えることもできる。
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「個人の自由だ」
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「家族揃ってホッカホッカの動物の死肉を食らうことこそ本当のしあわせ」
2.性欲処理や妥協の結果として成立した家庭生活を象徴するもの。それが食卓に並ぶ動物の死肉だ。こういった光景はもっと大きな性欲処理や妥協に回収される運命にある。 すなわち夫は殺され、子どもは殺され、妻は犯される。この運命からあなたと家族を守るもの、それはヴィーガンライフである。
3.精神面でも経済面でも生まれつき低調な種族、いわゆる「市井の人々」の市民性に寄り添うこととは、市民の倫理的潜在能力を過少評価し、その堕落や犯罪性を無際限に支持し、追認することではない。
4.牛や豚や鶏や猫や犬たちと一緒に毛布に包まって一年分録り溜めしたサザエさんを毎日見る。これこそが究極の幸せ。
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「食うために殺しているから問題ない」
3.実際には人間は売るために動物を殺害し、肉が売れなかったらゴミとして捨てている。 カネ儲けより動物の生命を優先してはならない。 第一の目的は利益であり、食糧確保は副次的な意義でしかない。 世界では生産された全食品のうち約40パーセントの食品が年間で廃棄されている。 人間は40パーセントの食品を捨てるために生産している。
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「肉を食べればよいので植物を食うな」
1.植物を食べればよいので肉を食うな
2.一日三食肉だけ食ってろ。 一日三食肉だけ食う人間と、一日野菜・フルーツだけ食う人間。どちらが健康的か。
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「肉食は重要な産業だ」
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「動物は人間ではない」
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「”かわいそう”は感情論/感傷的/幼稚だ」
裏の意味「感情論は女々しく男ではない。女のように不合理だ。理論派で建設的な私は男性的でありお前より優位な存在だ」
2.武器を持たない動物の殺害は男のやることではない。弱者である動物を守る者こそ本物の男だ。
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裏の意味「植物を殺していいのだから動物も殺していい」
・「人間と類似点が少ない植物を殺しているのだから、人間と類似点の多い動物も殺していい」という思考は野蛮と殺戮を最大化する。
・「あれを殺しているのだから、これ以上他の生命を殺してはいけない」と考えることで決定的な前進と改善を生む。
2.相手の矛盾を指摘しただけでは自分の主張の正当性を証明したことにはならない。 レトリックゲームにふける小賢しい日本人の餓鬼共は相手の矛盾点や過激な側面だけを攻撃することだけに執着するが、その先の視点がない。
残念ながら植物の根ごと殺して食べるヴィーガンは倫理的矛盾を克服できない。植物も生命である。
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「何か問題か?」
動物殺すのが問題ではないと思ってるのか?
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「善とか、悪とか断言しない。これこそがボクちゃんのやさしさ」
相対的な物事と絶対的な物事の区別をつけろ。 絶対的な物事を相対的に判断してはいけない。相対的な物事を絶対的に判断してはいけない。 殺される被害者に向かって殺されることは善でも悪でもないと自分の意見を押し付けている。 これこそが野蛮であり、犯罪の協力者だ。
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「物事は単純ではない」「物事は複雑だ」
1.全てを複雑化する必要はない。
2.現実は複雑でもあり、単純でもある。
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「動物を優遇すると人間の優遇が犠牲になる。悪魔だ・・・・。お前らは人間の地位と安全を脅かす悪魔だ・・・・!」
幼い子どもは動物の肉を食っているよりも、動物と仲良く遊んでいる方が楽しそうである。 これが悪魔の求める光景だろうか?
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「倫理・権利とは人間のためにある」
「人間のための倫理、権利」から「人間と動物のための倫理、権利」への発展させることが先進的である。 「人間のための倫理、権利」は人間を成長させ利益を生むが、「人間と動物のための倫理、権利」はさらに人間を成長させ利益を生む。 おいらはとっても食いしん坊。具が一つしかないごちそうより、具が二つあるごちそうの方が栄養があっておいしい。
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「権威に服従するは自然だ」
権威に立ち向かうのも自然だ。強い自然と弱い自然がある。 自然に従順であることを誇るなら自分自身が強い自然になって、より忠実に自然を再現しなくてはならない。
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「ニュースで読んだ、URLもある。これがデータだ。俺の主張は科学的なのだ」
自分で研究・取材したわけでもないのに、他人の研究成果や論文をコピペして、ネットで粋がっているだけの、何も成し遂げたことがない無能で怠惰な人間の言うことなど誰も聞かんわ。
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「人間は歩いていても植物や昆虫を踏みつけ殺している」
裏の意味「無意識な過失に罪がないのだから、意識的な犯罪にも罪はない」
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「水の中にも微生物がいる。水を飲むことで人間の消化器官や免疫細胞は微生物を殺している。したがってヴィーガンは微生物を殺している。だから我々も動物を殺害していい」
裏の意味「人間は内臓や微生物のように盲目的で機械的に生きるべきだ」
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「白血球だってウィルス殺してるだろ」
裏の意味 同上
2.もし誰かが人間体内の白血球や精子に至るまで自律運動する有機個体全般を生命体と定義し、それら免疫細胞に生命の価値、権利を認めるなら人間の体内を動物達が営む自然環境と定義すべきである。 人体の内部の中に自然が存在するからと言って、人間はその自然を破壊したり、所有権を主張すべきではない。 風邪薬、ワクチン、消毒による微生物の排除は、人間体内にある微生物と免疫細胞の食物連鎖の自然状態に人工の殺戮機械を投入し破壊する行為であるため自然破壊、動物虐待である。 免疫の権利否定し、体内の自然の弱肉強食を破壊する過剰で肥大化した衛生観念は消極的な自殺であり、人間の中にある免疫機能まで殺し始めている。
人工の中の自然、人間の中の自然まで否定することで免疫細胞は失われ、病原菌への抵抗力を失っている。
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「人間は何かを殺さないと生きていけない」
裏の意味「何かを殺すのが人間の本質だ」
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裏の意味「人類が行うあらゆる暴虐と犯罪は地球(ガイア)の意志だ」
・文明によって人類が肉を喰うようになったのなら、文明によって人類が肉を喰わないようにすることもできる。
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「人類は自分達の利益を追求することで生き残り繫栄してきた。地球上のあらゆるものは人間に奉仕しなくてはならない」
裏の意味「人類が他者の利益を追求することで繁栄してきた歴史など絶対にないと私は信じている。あったとしても、資本主義はそれが幻想であることを証明している。たぶん」
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「肉食をやめて我々に一体何の得があるのか?」
1.肉を食って我々に一体何の得があるのか?動物を殺さなくても食料確保、趣味、金儲けできるのに。 経済至上主義や戦争などの無数の災厄は肉食の概念を発展させたものだ。 肉食の概念の応用をやめれば人類は今よりもっと幸福になるのではないか?
2.この資本主義社会では誰かが損をすると、誰かが得をする仕組みになっている。 食肉の廃業で損をする者がいる一方で、代替肉ビジネスで得をする者もいる。
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「ヴィーガンなんてオカマ文化だろ。植物性のものだけ食べていたら体は弱くなるし、闘争心がなくなる」 是非とも草しか食べないバッファローやアフリカゾウ、野菜とフルーツしか食べないゴリラと素手で一対一で闘ってほしい。 毎日バナナばかり食べているゴリラは右ストレート一発で、一日三食肉をドカ食いし日々筋トレに励むマッチョ男の首を胴体から切り離すことができる。 世界最速の陸上選手ウサイン・ボルトの走る速さは時速45キロ。小型草食動物のうさぎの走る速さは 時速40〜72キロ また、種類によっては時速80キロ近くで走る。さらに野ウサギは、持久力もある。 毎日肉を食っている大きな人間は毎日植物を食べている小型の野うさぎを素手で捕まえることができない。 ヘンリー・デーヴィッド・ソロー 「森の生活 ウォールデン」( 岩波文庫 飯田実訳) 『ある農夫が私に言う。「人間はね、野菜みたいな植物性のものばかり食べていたんじゃ、生きてはいけないよ。骨を作る成分が取れないんだから」。そこで農夫は、自分のからだに骨の原料を供給するための仕事に、一日の一定時間をうやうやしく捧げる。こうしておしゃべりをするあいだも、畑を耕すウシのあとからついて歩くのだ。ところが植物製の骨をもつウシのほうは、あらゆる障害物をものともせず、この男と重たい棃ををぐんぐんひっぱってゆく。きわめて無気力で病的な社会においては生活必需品とみなされているものが、別の社会では単なる贅沢品となり、さらにはほかの社会では、まだその存在すらまったく知られていない、といったことがあるのだ。』 |
「家畜化された動物が大量に存在できているのは、それを人間が食べるという習慣があるからであり、
家畜化のせいで野生動物の生存能力が奪われたなら、飼育によって野生の生存能を取り戻すリハビリも可能である。
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2.自分を殺した加害者(もしくは加害者が雇った坊主)に供養されたり、感謝されて成仏できるわけねえだろ。
3.愛情を持って感謝しながら動物を支え、天寿を全うさせてから供養すれば動物は人間に感謝する。
4.お前は傲慢に、殺された被害者の感傷と生命より、殺した加害者の感傷を尊重し優先しろと言っている。
6.動物殺害に何らかの罪の観念を抱きながら「いただきます」の一言で済まそうとする不誠実な人間は死後、必ず地獄に落ちなければならない。
5.お前は償いをするなら罪を犯しても無罪だと思っている。償いをしてエライ自分は何をしてもいいと思っている。
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「畜産関係者は愛情を持って家畜を育てている」
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「屠殺者も精神的に苦しんでいる。彼らを責めるべきではない。屠殺者も被害者だ」
1.殺す側に良心の戸惑いがあるなら、悪を行ってもいいのか
2.殺される側の生命と感情よりも、殺す側の気分や感情を優先してはならない。 こいつらは「殺す側の気持ちを尊重しろ。殺される側の感情と生命など無視しろ」と唱えて、今日も動物の大量殺戮を推進している。
3.生命よりも自分の気分を尊重する人間に同情の余地はない。
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「動物は人間ではないので、人権法をモデルケースにすべきではない。動物を商品やモノとして扱う経済的議論の限界に留まるべきだ」
動物をモノや商品として扱う経済的観点が今も殺戮を推し進めている。 権利以外のいかなる概念も動物の生命を守ることはできない。また「ぬいぐるみに対する愛着」といったレベルのモノに対する感傷や、個人の漠然とした道徳心やフェティシズムに委ねたり、尊重するだけでは監禁虐待に対立する根拠にはなりえない。 動物保護は歴史が浅く、前例も乏しい。人権をモデルケースとして応用し、指針、基準にして成長させ確立させなければ事態は改善しない。
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「食欲を満たすだけでなく楽しみや趣味・文化も必要だ」
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「動物が苦痛を感じることを客観的に証明できない。したがって動物は痛みを感じないはずだ」
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「狩猟は男のロマンだ」 |
「食うためなら狩猟は許される」
食うためなら野菜と果実を食べればよい。
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「動物実験は人間のためだから仕方がない」 日本独自の表現「仕方がない」「しょうがない」 を人間語に翻訳すると「それが自然だ」「自然には逆らえない」
動物と人間の利益を守るために動物実験は廃止すべきだ。動物に良いか、人間に良いかの二項対立ではなく、動物にも人間も良い世界を目指すべきだ。 自然には動物実験などないのだから動物実験が消えるのは自然なことだ。
人間の利益のためだけに動物を犠牲にする者より、人間と動物の利益を追求する方が自然でより道徳的で進歩的である。
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「野生動物から農作物を守るために狩猟は必要だ」
2.人間という侵略者の安全と権利ばかり追求して、被害者の権利をさらにはく奪する行為ほど不道徳なものはない。人間よりも優先して動物の生命を尊重することこそ道徳的である。
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「人に危害が及ばないように、悲しいけどやむなく熊などを殺害している」
裏の意味「私は合理性と多数の利益のために自分個人の感情を封殺して動物を殺害する利他的な善人だ」
2.麻酔で森に帰せば殺さなくても人間を守れるので合理性などない。
3.人間と動物の生命両方守るための努力と実践こそが道徳的だ。
4.侵略者(人間)の利益にばかり奉仕して、生息地を破壊、侵略された被害者の動物をさらに殺害する行為ほど不道徳なものはない。
5.人間の利益のために個々人が自らの良心を封殺して動物を殺害してきたから、自然との齟齬と不和が大きくなった。
6.自分達の集団の安全と利益のために、自分達以外の集団の安全と利益に対する無際限で過激な蹂躙は、集団的利己主義であり、集団的利他主義と対立する不道徳な行為だ。
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「肉食の否定は肉食産業従事者とその家族への攻撃だ」
・常軌を逸した大量殺戮、忌まわしい凶悪犯罪組織の主犯と関係者が反撃されるのは当然。
2.殺される側の生命と感情よりも、殺す側の利益や感情を優先してはならない。 ・肉食産業従事者は自分の家族を養うために、動物の親子を何世代にも渡って大量殺戮している。動物を殺害しなくてもカネを稼ぐ方法はいくらでもあるにも関わらず。 ・人間は被害者ではなく、加害者である。動物は人類を奴隷にしたり、大量殺戮したことなど一度もない。
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「動物実験は人間の利益のためだから仕方ない」
1.人間の利益のためなら何をしてもいいのか
2.動物実験で成り立つ医療に依存しなくても人間は健康でいることができる。
3.人間の利益と動物の利益を守る医療の方がもっと倫理的で進歩的である。
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「プププッ、正義マンだ。大人になれよ」
裏の意味「成熟とは完全に堕落し汚れることだ」
セックスしてるからといって誰とでもセックスしていいことにはならない。少し悪を行っているなら、もっと悪を行っていいいことにはならない。 誰もが少し汚れているからといって、誰もがもっと汚れていいことにはならない。 悪人が多いからといってあなたまで悪人になる必要はない。聖人でないからと言って悪人になる必要はない。
誰でも埃が出たとしても、小物ほど埃の量は少なく悪影響は少ないが、大物であるほど埃の量は多く悪影響は大きい。
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「不正を黙認し汚れることで大人になれる」
不正を黙認し汚れることなら小学生でもできる。 ある不正を黙認し汚れているからといって、全ての不正を黙認し、さらに汚れようとするのはただの餓鬼だ。
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「正義(笑)の棍棒振り回してイキってる」
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「いひひひっ、動物好きのヴィーガンさんは動物とセックスしてるんだってね?」 |
「動物の殺害に何の躊躇もない人間もいれば、感情を持つ人間もいる」 裏の意味:人それぞれ
1.動物の生命より、個人の個性、嗜好、思想、多様性を優先してはならない
2.様々な感覚、考えを持つ人間が無数にいても人間に殺されるのを望む動物は一匹もいない。
3.動物の殺害に何の躊躇もない者は多数派ではない。だから肉の販売と殺害が分業化している。 殺害が多数派にならないのは多くの人間が動物殺害に対して「社会的に有意義だ」という理論によっても克服できない不快感を持ち本能的に悪であることを知っているからだ。
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「あなたの主張にデータあるんですか?」
「人類は1000万年動物の肉を食べていたのかどうかわからない」といいう研究結果やデータも存在する。
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「ヴィーガンも肉食者も互いに認め合い、肉を食わない権利と肉を食う権利を尊重し合おう」 裏の意味「殺す者と殺さない者は互いに愛し合おう。殺される者の感情と生命は置き去りにして」
1.その中に動物の生命、自由、幸福、権利、動物への愛情はどこにあるのか。 「動物を殺す人間×動物を殺さない人間」という政治勢力の対立構図の緩和に終始して、現実に殺されている被害者である動物の存在を置き去りにしている。
「殺す者×殺さない者」の対立ではなく「殺す者×殺される者」の視点こそが重要だ。 「ヴィーガン・ベジタリアンと肉食者の共存」という政治テーマは人間のライフスタイルとイデオロギーを尊重するものでしかなく、「動物はモノであり、権利はない」という動物を守るために受け入れてはいけない肉食正当化の根拠となる愚かしい観点を暗黙に追認している。
『人間×人間』の枠内にとどまる限り肉食勢力は、ヴィーガン・ベジタリアンを既存の慣習、産業への侵攻勢力と見なして反動を正当化し続ける。 「動物VS肉食人間」の観点では肉食者は自由に暮らしていた動物を捕獲・監禁・殺害し、先制攻撃を行った加害者であることは明らかだ。 ヴィーガン・ベジタリアンは人間に反撃しているのみだが、肉食勢力は動物を先制攻撃し、ヴィーガン・ベジタリアンの人間まで攻撃している。両者の攻撃量を比較すればどちらが悪であるか容易にわかるはずだ。
「私はレイプをしない」という態度だけではレイプに反対していることにはならない。 「私は肉を食わない」という個人の消費態度だけでは動物殺戮に反対していることにならない。 「私は人間を殺したことがない」と言っても誰も褒めたりしない。
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「ヴィーガン・ベジタリアンが増えて市場が確立されれば、肉食産業は衰退し、殺害される動物の数を減らすことができる」
1.消極的で緩慢な運動では、被害者の数は消極的に緩慢に減るだけである。 積極的な動物殺害に対して消極的な抵抗運動は無力で敗北する。 殺害される被害者を第一に考え、被害者を減らすことが目的ならある程度の社会運動と行動主義との連動が必要。 被害者と加害者の権利と価値を強引に無条件に均質に扱う必要はない。
2.犯罪を減らしているのは法の処罰の機能、被害者の権利が確立さているからであって、社会のムードや市場原理が抑制に作用しているのではない。
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「ヴィーガン・ベジタリアンは最高の非暴力・非服従運動だ」
「何かをしない」ことで成立する抵抗運動とは具体的には肉食産業を支援する政府への納税拒否、家畜輸送車の前での座り込み、逮捕されても何度でも座り込む、逮捕されたらハンガーストライキなど。 「何もしない自分」を能動的善のための道具に利用するのが非暴力・非服従運動であり、自宅にいながらパジャマ姿で肉を食わないというだけでは非暴力・非服従運動にはなりえない。 ガンジーはヒンズー教徒であり、絶対で至上な善の源流である神の存在を信じていた。
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「肉食は健康に悪い、肉食はコストがかかる。だから肉食はやめよう」
これでは経済的論理を導き出すための電卓だ。 肉食が健康的で、コストも安いと証明されてしまえば肉食は復活する。 「理由もなく動物を殺してはいけない」と唱える連中は結局「理由があるなら動物を殺していい」と主張している。
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「人間にも、動物にも優しい世界を。なので許されるのはヴィーガン・ベジタリアンの浸透だけだ。人間の利益を損なう急進的な動物権利運動は否定されるべきだ」 裏の意味「人間の生きる権利を尊重し、優しくしよう。動物には優しさだけくれてやって生命を奪ってもかまわない」
1.この観点は人間の殺す権利を認めて、動物の生きる権利を無視しているので全く平等でもなければ優しくもない。 現在進行している動物の大量殺戮と奴隷化という犯罪を止めようともせず、殺害している加害者(人類)と殺害されている被害者(動物)の権利と価値を、強引かつ極端に平等化することは、被害者(動物)に対するさらなる攻撃である。
人類は動物を大量殺戮し奴隷化しているが、動物は人類を大量殺戮したり奴隷化していない。 殺戮し奴隷にする側と、殺戮され奴隷にされる側の権利と価値を同一視したり、全面的に均質化している時点で、動物の生命の価値を限りなく無価値に設定、もしくは「動物はモノだ」という加害勢力側と同じ価値観と前提を共有してしまっている。 殺している加害者と殺されている被害者に同じ量の「優しさ」を与えるだけで満足するのは全く平等ではないし、優しくもない。
2.加害者の利益と感情を、被害者の生命と感情より優先してはならない。 被害者の生命・感情×加害者の利益・感情を強引に均質化してはならない。
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「人間の権利より、動物の権利を優先するのか」
1.人間は動物に対してつねに加害者であり、動物は被害者である。 被害者の利益と加害者の利益を強引に均質化したり、被害者の利益より加害者の利益を優先するのは被害者へのさらなる攻撃だ。 動物の権利は尊重するだけでなく、つねに優遇によってその損害を補償し、公正が実現できる。
2.人間だけを優遇する社会より、人間も動物も優遇する社会の方がより進歩的である。
3.肉食は動物と動物好きの人間を冷遇して動物嫌いを優遇している。 「動物vs人間」ではなく「動物&人間の権利VS人間の権利」が衝突している。 「肉食する権利」は人間の「動物を尊重する権利」を否定し、侵害する。人間同士の対立でもある。 動物権利側は人間のみを攻撃するが、肉食側は人間と動物を攻撃している。 肉食側の攻撃性と野蛮が遥かに上回っている。
4.私たちは「動物か、人間か」の二項対立で考えていません。人間も動物も安心して自由で幸福に暮らせる世界を目指しています。
5.俺の夢は罪人共の肉でドッグフードを作ることだ。
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「動物は愚かで言葉を話さないし人間ではない 動物の権利などばかげている」
権利意識は弱者の側だけから発生するわけではない。 南北戦争によって奴隷制を廃止したのは黒人ではなく、黒人の権利を代弁した白人である。 フランス革命を起こしたのは農民ではなく、農民の権利を代弁したブルジョアである。 ロシア革命を起こしたのは農民ではなく、農民の権利を代弁した学生である。 明治維新によって議会制民主主義を導入した(形だけとはいえ)のは農民ではなく、農民の権利を代弁した(形だけとはいえ)武士である。 弱者のために戦う強者によって弱者の権利は確立され保証される。
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「犬や猫の餌に他の動物の肉を与える人間は、全くベジタリアン・ヴィーガンではない」
すでに多くの思慮深いヴィーガン・ベジタリアンは豚・鶏・牛の肉成分が入った食べ物は選ばずに、犬猫に魚の肉成分が入ったカリカリ、魚の缶詰をあげている。 犬猫に魚を与えるのはベジタリアン・ヴィーガンの精神、動物権利精神と全く矛盾していない。 イエス・キリストはパン5つと魚2匹を大量にコピーし5000人の群衆に与え、死後に復活してから漁をしていた弟子達に姿を現し、魚とパンを与えた。これは犬猫に魚をあげることが人類に課せられた至上の義務であることを強く示唆している。 カリカリの原材料の半分はコーン、パン粉、小麦粉、大豆、野菜類であり犬猫は人間と暮らすことで半分ベジタリアン化している。アボカドが主成分になった犬猫用食べ物もある。 チベットの伝統的な葬儀方法に自らの死体の肉を鳥たちに与える鳥葬があるが、人間の遺体の肉を犬猫に与える犬葬、猫葬が確立できれば素晴らしい。 イエス・キリストは人類に自らの血と肉を与えたのだから、人類もまた動物達に自らの血と肉を与えなければならない。 犬猫は人間の森林破壊による食物連鎖崩壊で人間に依存せざる得ない状況に追い込まれた被害者であるため、加害者である人間はつねにその生活を補償する義務がある。 犬猫達が人間に食べ物をもらわなくても狩りで自給できる自然環境の再生が実現されるまで、人間は犬猫の生活を保障する義務がある。
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「氷河期で、他に食うものがなくなったら人間はあらゆるものを食っていい。人肉さえも」
生きるために食うのであり、食うために生きるのではない。 永遠の生命のために朽ちるものではなく、朽ちないものを食べるべきだ。
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「善と正義を追及すると人間は全て死なねばならない。限定的な倫理の運用こそ人間性である」
善と正義を追及することで人間は生き残り、繁栄したのも事実である(日本は違うかもしれないが)。 善と正義によって悪をゼロにしようとするのではなく、悪を減らそうとする努力が我々の豊かな人間性を形作ってきた(ただし日本人は除く)
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「動物虐待する者は人間にも矛先を向ける。動物虐待を放置するとあなたの子どもも必ず殺されます」
だが100パーセントそうではないし、弊害の一つでしかない。人間を殺さなければいくらでも動物を虐待しても問題ないことになる。 人間至上主義の価値観に追随したこうしたアプローチは、動物保護の可能性と発展を自発的に狭めることになる。
ただし「動物虐待をする者は人間に対する凶悪犯罪に及ぶ可能性が高い」という通説は統計的根拠によって事実であると証明されている。 http://www6.plala.or.jp/MYJAPAN/wispa%20honyaku.htm 児童期に動物を虐待したことがある可能性は、攻撃的な性向のある犯罪者の場合、他のタイプの人間と比べると非常に高いということだ。 1984年に、アラン・フェルトハウスとスティーヴン・ケラートはカンサス 州とコネティカット州の服役囚152人を対象に調査を行った。 調査によって攻撃的な性向を持つ服役囚の25パーセントが児童期に繰り返し動物虐待をしたことがあるのが明らかになった。一方、攻撃的な性向のない服役囚では、6パーセントでしかなかった。 アラン・フェルトハウスが調査した攻撃的な性向のある成人達は、犬や猫を繰 り返し虐待した経歴のある精神病患者だった。 患者達に共通するのは、両親から厳しい折檻を受けたことで、また、全員、人間に対する攻撃的な性向が強かった。
1982年にエリザベス・デヴァイニィとジェフリー・ディカートが行った児 童虐待の問題がある家族に関する調査によると、 子供を肉体的に虐待する問題で YOUTH AND FAMILY SERVICES(青少年と家族問題相談所)に紹介された。ニュージャージー州在住の家族のうち、動物を肉体的に虐待したことのあるものが家族の中にいる 家庭が85パーセントあった。その大部分は加害者である親が子供をしつける方法として、ペットを殺したり、傷つけたりしていた。
FBIは連続強姦犯と連続殺人犯のコンピュータの記録には必ずと言っていいほど頻繁に動物虐待の記録が入っていることに気づいた。
ジェームズ・ハットンはイギリスのある自治体のために動物虐待についての記録を調べた。
動物虐待があった23家族のうち、83パーセントが子供が虐待を受けていたり、親が養育の義務を怠っている危険がある、と福祉課などから報告されていた。
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「高層ビルこそが繁栄の証だ。森でキャンプファイアーでもしろと言うのか」
1.日本を含む人権意識の乏しい第三世界の首都に屹立する高層ビル群の光景を見る限り、人工至上主義が進歩の指標であった時代は終わり、加工食品への過度な依存、自然の乏しさは貧困や後進国の定義と強く結びつくようになっている。アメリカが世界の覇権国としての地位から転落したなら、次の覇権国の役割は間違いなくドイツを中心にしたEUが果たすことになるだろう(中国による世界支配は人類滅亡と形容すべき)。 すでに自然派=高級、人工漬け=貧乏という図式すら出来上がりつつある。
2.「自然と人工」ではなく「自然の合理性と人工の合理性」を比較すべきだ。 人工の合理性は本当に自然の合理性より優れているのか?人工の合理性を自然の合理性より無際限に優先したとき何が起こっているのか現実を見るべきである。 「自然に合理性はない。人間だけが合理性を持つ」という考えは科学的ではない。 自然には強力な秩序とシステムが実在する。自然の合理性が人工の合理性を生み出し支えている。 人工の合理性が、自然の合理性を助けることで人工の合理性は正しく機能する。
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「肉食産業を廃止すれば失業者がたくさん出る」
1.肉食産業に代わって台頭した代替肉企業に転職すればいい。あるいは肉食産業は生産・販売する内容を代替肉に置き換えればいい。レコードからCD、VHSからDVDに移行するように商品を新しいソフトに置き換えても損害は起きない。
2.動物の大量殺戮という物理的的死と人間の失業という間接的死を均質に扱ってはならない。
3.下らん建前はどうでもいいので、肉食に関わった人間どもは動物と同じ目に遭わせるべきである。
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「肉食には長い伝統がある。ヴィーガンは伝統を破壊する急進的な新興勢力だ」
2.伝統のために生命、自由、幸福があるのではなく、生命・自由・幸福のために伝統がある。 伝統は、生命・自由・幸福という最も普遍的で最古の伝統に優越しない。
3.もし肉食が伝統であるとみなすならその手段と方法も伝統に忠実でなければ伝統的価値を持たない。現代の畜産システムに依存した肉食は伝統の忠実な継承ではない。マラソンの参加者全員が自動車に乗ってレースをするならそれはもはやマラソンではない。 |
神の伝統に比べたら虚無の伝統など無に等しい。
神の伝統に比べたら虚無の伝統など無に等しい。
神の伝統に比べたら虚無の伝統など無に等しい。
そして至高の伝統である神は人間の心の中に存在する。
「ヴィーガン・ベジタリアン・動物権利はどちらかというとヒンズー教・仏教由来のものではないのか?」
ヴィーガン・ベジタリアン・動物権利はキリスト教由来のものである。 神に選ばれた古代イスラエルの民は異教徒を侵略し、多くの価値あるものを略奪した。 もちろんこれは当時の古代イスラエル人が神の意志を世俗的に歪めて解釈し、誤って実践した結果でしかないが、「善いものは神の所有物である」という摂理は変わることがない。 なぜなら全ての善いものは神から生まれたものであり、異教徒が培ってきた道徳的価値が高い観念や偉人などのキリスト教精神と充分に整合できる霊的財産は異教徒のものではなく本来は神が占有すべきものである。すなわち徳川綱吉もガンジーもキリスト教徒だったのだ。 神に本来所有権がある霊的財産を異教徒から取り返したとしても、神が傲慢なのではないし、略奪でもない。返してもらっただけだけであり、神の当然の権利であり、当然の現象なのである。 ヒンズー教、仏教が生み出したように見えるヴィーガン、ベジタリアン、動物保護の要素は所有権を持つ神が奪還し、吸収し、同化して当然である。 もちろんある種の信仰共同体の領域には全てが無価値で堕落し、汚れきっていて神とは無関係であるという現実があることも忘れてはならない。
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「肉食者は知的、精神的、道徳的弱者であるが、こうした弱者の不道徳性を糾弾するのは弱者攻撃なのでヴィーガン・ベジタリアンも悪だ」 ※アマチュア精神分析によるラベル貼り
麻薬中毒者に寄り添うとは麻薬の使用を称揚したり黙認することではない。 麻薬中毒者の麻薬使用を黙認し、麻薬を買い与える行為は優しさや愛情ではない。それは破滅と堕落を加速させる攻撃である。 麻薬市場を壊滅させ供給源を断つことも麻薬中毒者の支援に不可欠な戦術である。
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「ヴィーガンや動物保護などの道徳的な態度や振る舞いは、自分が崇高な存在になった気がしてさぞ気持ちいいに違いない。ヴィーガンや動物保護なんて動物のためではなく、自分のためにやっている利己主義者だ。」 ※アマチュア精神分析によるラベル貼り
馬鹿げたアマチュア精神分析家ごときが不誠実な憶測に基づきラベルを貼ることこそ攻撃的な利己主義だ。 完全な利己か、完全な利他かの二項対立に拘るのは幼稚な引きこもりだけだ。 自分のためでもあり、他者のためでもある。動物のためでもあり、人間のためでもある(建前上は)。自分の気持ちよさと他人の気持ちよさ。自分を守り、他者を守る。自分を救い、他者を救う。自分が満たされ、他者も満たす。カネと正義のために命をかけて戦わなければならない 。 利己のために利他を道具として利用する偽善者がいるように、利他のために利己を道具として利用する本物の善人もいる。 善行をする者が本物の善人か偽善者であるか客観的に可能な限り判断し予測する方法はその善人が何を信じて、どのような結果を出しているかが重要である。
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「長い時間をかけてじっくり議論を~」
1.被害者の生命より議論や会議を優先してはならない。
2.人間は短い時間で毎秒動物を殺害しているのだから、短い時間で議論を終わらせ迅速に行動すべきである。 じっくり議論してたら今この瞬間に大量殺戮されている何億頭もの動物の生命を救うことができない。 動物の生命は議題でも、数字でも、観念でも、概念でも、政治でもない。 殺害された動物を今すぐ生き返らせることができるなら、いくらでも時間をかければいい。
3.長い時間をかけてじっくり育まれてきた「人間は本来肉を喰わない」という自然秩序は人類が言語を生み出し議論に興じる以前から持っていた人類史の伝統と本能に根差した習性である。人間が元からあった姿に戻るのに過剰な理性や論理は必要ない。
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「昆虫は見た目もかわいくないし、共感もできないので殺していい」
1.鳥が昆虫を食べるのは自然の光景だが、人間が昆虫を殺すのは自然秩序に反する破壊行為だ。 父親が創造したものを破壊する者に対して子どもが怒るように、神への愛を持っているなら神が創造した自然秩序と被造物に対する人間の破壊行為を目の当たりにして怒りを覚えて当然だ。 神への共感と愛という最も重要な利他心が欠如した悪人は、神が創造した世界と被造物を破壊して神を攻撃する。
2.私の経験ではゴキブリは人間になつく。ゴキブリの声に耳を澄まそうと努力すべきである。昆虫は隣にいる知らないおっさんよりずっとかわいいし、共感できるのである。
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「植物は見た目もかわいくないし、共感もできないので殺していい」
植物と同じ部屋で一緒に暮らすか、隣の知らないおっさんと同じ部屋で暮らすかなら植物と一緒に暮らすほうがいいに決まっている。 植物にブチューするか、隣の知らないおっさんにブチューするかなら植物にブチューするほうがいいに決まっている。 植物と隣の知らないおっさん、どちらがかわいくて共感できるかと問われたら植物の方に決まっている。 糞親や知らない親戚よりも植物のほうがかわいいくて共感できる。 愛情や共感は言語、論理、意識ではない。言語化、論理化、意識化できていない愛情と共感を感得すべきである。
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「動物愛護やヴィーガンは人間を憎悪している、人間の欠点や落ち度を攻撃材料にして人類の価値を貶めたいだけではないのか」 ※アマチュア精神分析によるラベル貼り
1.殺人犯の殺人を黙認して褒めて伸ばしてさらに殺人を助長するのは人間の価値を高めることにはならない。 「人間は堕落しているのだから、堕落こそがアイデンティティであり守られるべき個性と権利だ」と唱える者こそ、人間の可能性を否定し、人間の価値を貶めている。
2.ヒトラー曰く「大衆は中途半端で弱いものを絶対に受け入れない」そうだ。お前らは多くの活動家が合法の範囲内で敵とじゃれあっていて「よわそー」だから冷笑しているだけではないのか。お前らは市民的勇気に留まるあらゆる活動家を軽蔑し冷笑することで売春婦のように相手の超男性性を誘惑して超神話的闘争へ駆り立てようとする。もし本当に平和を望むならば対話が通じる内に真摯に対話をしておくべきだ。
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「動物愛護、動物権利という概念は~」
お前自体何かの概念ではないのか?
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「正義が邪悪をボコボコにしたり殺したりするのは邪悪がかわいそう。正義は野蛮で悪だ」
人間は善なるものとして生まれたが、人間が善を加虐し、善の力を略奪して悪になったから、善は正義となって正当防衛の権利を行使している。悪人という時点で善に先制攻撃を仕掛けている。善は自分に忠実な道具を使って奪われたものを悪から返還してもらおうとしているだけだ。
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「ヴィーガンはリベラル!キャンセルカルチャーだ!」
1.肉食は有史以前から続く人類の「肉を食わない伝統と文化と自然」をカネのため、楽しみのために破壊する過激派のテロリストである。
2.極東の未開人が「リベラル批判」という欧米から輸入したオモチャを使ってあらゆる善意や弱者保護を攻撃しているようだが、 真似してくれなんて誰も頼んでないのに、ニュアンスや文脈や背景を全く理解せずに模倣して、盛大に応用を間違って単に野蛮性を正当化し拡張するための武器にしかなってない。 日本に見られるのは欧米から輸入した棍棒を用いてあらゆる善の概念に襲い掛かる人食い種族保守派の蛮行である。 アメリカで製造された「キャンセルカルチャー」や「批判的人種理論」などのリベラルに批判的ないくつかの概念はキリスト教伝統に否定的なリベラル勢力に劣勢に立たされたキリスト教保守派がリベラルに対抗するためになりふりかまわず使用する武器でしかない。 子どもは完全に親の所有物という前近代的な観念を保持し、「間引き」という因習が戦後まで残っていた日本では、多くの日本人は潜在的に中絶反対派がリベラルで中絶支持派が保守であると見なしている。「日本人の死因第1位は中絶」というデータが事実を裏付けている。 虚無・カオス教徒(日本人)が定義するリベラル?保守?それは駒の足りないチェスでゲームをしたり、ゴールキーパーがいないサッカーで試合をするようなものだ。 日本ではいかなる善いものも肉の入った鍋に塩を加える程度の効果しかない。 もし虚無・カオス教徒(日本人)に建設的な提言を与えるならば、壁に向かって立ってろ。引きこもってろ。そして消え去れ。
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「ヴィーガンや動物権利派は動物への共感よりも人間に対する排除欲、攻撃欲の方が上回っているのではないか」 ※アマチュア精神分析によるラベル貼り
1.「人間の権利を守ろうとする人間は偽善者である」と言いたいのならそれは一理ある。ただし動物に対する共感と人間に対する共感を一緒にしてもらっては困る。我々は人間を失敗作で地球の癌細胞であることを本能的に知っているので、見ず知らずの人間なんぞいくら死んでも我々は何も感じないし、人間愛なんてほとんどの場合偽善だろう。聖人が見ず知らずの人間を愛しているなら、神と神の世界を愛し、神の秩序を守り、神のために愛するからであって、見ず知らずの人間そのものを愛しているわけではない。 しかし動物は無邪気で何をやってもかわいいし、自然秩序に忠実で善良で完成された価値の高い存在である。動物のかわいさには驚くべき秘密がある。動物に対する人間の愛情を信じろ。
2.実際に排除し、攻撃しなければならない犯罪者の勢力の方が上回っているのだから相応の反応が起きて当然である。 加害者を排除し、反撃する以外の方法で被害者を守り、犯罪を減らす方法があれば教えてほしい。
3.無条件で排除してはならない。攻撃してはならないという教条も不自然で暴力的な理性の暴走であり人体損壊の論理である。 自分の子どもが他人に殺されても同じ状態になるだろう。 被害者への共感よりも、犯罪者への排除欲、攻撃欲が上回るのは悪いことなのか? 被害者への共感と、加害者への排除欲、攻撃欲は均等にすべきだ。あるいは被害者に共感だけして、加害者を排除するな、攻撃するなと言いたいのだろうか? 共感が1あって排除欲・攻撃欲が2あったら邪悪扱い?現実には善いものより悪の方が多いのだから排除欲・攻撃欲が上回って当然だ。
4.憎悪と怒りは道具であり、この道具を使って善と悪が戦っている。善い者が使用する道具は善の結果を生み、悪い者が使用する道具は悪い結果を生む。 利他心に奉仕する利己主義者がいる一方で、利己心に奉仕する利己主義者もいる。利他心に奉仕する個人感情は、利己心に奉仕する個人感情よりもそのエネルギーと能力はつねに上回る。 利他心に奉仕する利他主義者がいるならば、その精神構造は人間のものではないので常人がうかがい知る領域ではない。
5.動物をモノとみなし、ヴィーガン、動物権利派の人間を敵視し、憎悪する排除欲、攻撃欲の塊である肉食者が何らかの不利益を被っても、それは本人の問題であると思われる。
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「善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的善悪は相対的」
こんな気持ち悪い宗教を信仰するくらいなら一神教信じたほうがマシだと思う。
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「経済至上主義は人肉食や肉食の概念を発展させたものだ。我々の豊かさは肉食の概念から生み出され、支えられている。肉食の否定は我々の豊かさを支える基盤を揺るがす」
経済至上主義は経済だけではなく、その核である肉食の概念を肥大させ拷問の概念へと発達させている。 資本家は消費者や労働者の肉を食うだけに飽き足らず拷問することを楽しむようになっている。
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「猛獣や自然災害は人間に損害を与える。我々は被害者なのだから動物も自然も殺しつくすべきだ」
1.サバンナにマイホームを買って自分がライオンに食われたら、ライオンは加害者になるのだろうか? 滝の真下に家を建てて家が潰れたら滝を憎みせき止めるつもりだろうか? 人間が熊に喰われるのは人間が本来の生息地から離れて住むべき場所ではない土地に住み着いた愚かさが引き起こした人災である。 水生類人猿説は真実である。体の垢を落とすのにシャワーとボディーソープが必要なのは肉体が「そこはいるべき場所ではない」と常に訴え続けているからだ。
2.自然災害よりも戦争、交通事故の方が多くの死者を出している。地震被害は人災であり、多くの人間が死ぬのは地震で潰れるような建物を建てたからだ。
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「俺は動物なんて全くかわいいと思わん」
「私は細菌なんて全くかわいいと思わん」「私は石なんて全くかわいいと思わん」とは普通は言わない。 おめえさんよ、そんなことをわざわざ言うのは動物のかわいさを知ってるからなんじゃねえのかい? おめえさんが毛布好きで、一日中毛布の中にいたがるのは、お毛もの(動物)のかわいい体の手ざわりを疑似体験して、お毛もの(動物)のかわいい体に押しつぶされたいと願ってるからなんじゃねえのかい?
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「人間は動物より絶対に優れている」
「人間は細菌より優れている」「人間は石より優れている」とは普通は言わない。 おめえさんよ、そんなことをわざわざ言うのは人間が動物より劣っていることを知ってるからなんじゃねえのかい?
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「猛獣は危険。殺すべき」
強面のヤクザに、ニコニコしながら何の見返りも求めず毎日100万円をあげてごらんなさい。向こうから逃げていくか、なつくようになるから。あるいは面子を保つために無愛想に100万円は受け取るけどあなたを殺すことはなくなるだろう。 動物にとって一日の食事は100万円の価値があるので、メシを上げていればどんな猛獣もなつくようになる。ただしその行為に自分のための操作や作為などの人間都合優先の「肉の臭い」があるならお毛もの(動物)は審判者となって必ずあなたを裁く。
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「私は人間なのだから動物より人間を優先して当然だ」
1.男は一年間で365人の女を孕ませることができる。365人の女を手に入れるならライバルである男3650人を殺すか排除しなくてはならない。 他人はあなたの仕事やカネや女を奪う敵である。従って人間は本来人間よりも動物に愛情を持つようにできている。
2.有象無象を「人間」などと一般化してはいけない。ネコ科の動物にはライオン、虎、チーター、ハイエナ、猫などの複数の種がいるように、人類は複数の種に分岐している。社会とはヒト科金持ち、ヒト科貧乏人、ヒト科利口、ヒト科バカ、ヒト科カスという複数の種の生存圏を巡る戦場だ。 もし平和が保たれているのらそれは動物愛護の精神に他ならない。 「大衆」と呼ばれるヒト科バカという動物の立場はヒト科利口によって芸を仕込まれた犬や猿と何ら変わることがない。 少数のヒト科利口(人間)が創造したものを多数のヒト科利口という動物が模倣し、少数のヒト科利口(人間)がヒト科バカという動物を支配している。 ヒト科バカ(俗称:大衆)という動物は動物愛護の精神によって生命を保障され、ヒト科利口によって飼い慣らされているペットである。動物愛護を否定する者は「大衆」と呼ばれる動物を保護する法的根拠と倫理的根拠を破壊しようとするテロリストだ。
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「正義は暴走する。正義は戦争を起こす」
1.本物の正義と偽りの正義の区別を壊そうとする工作ほど愚かで不道徳なものはない。さらなる混乱を引き起こすために倫理の土台を狙った破壊と暴走は全く建設的ではない。
2.敗北者のジジイとババア共はアメリカがイラクを侵略した時何をしていたのか?そう信じているならなぜ「暴走した(自称)正義」の典型であるブッシュ元大統領とネオコン一味に今からでも抗議しに行かないのか? 今でも自称正義の戦争で民間人が殺されているが部屋の中からパジャマ姿で愚痴ったり、ネンブツやおまじないを唱えて誰が得をするのか?
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「我らニホンジンは正義の価値を汚染し転覆させる思想戦を水面下で展開することで憎きアメリカ帝国を支える信念体系を周辺から打ち崩し、必ず復讐を実現する。この行進に同調しない非国民は誰であれ黙殺するか社会的・物理的に抹殺する」
お前は絶対くさそう
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「動物は動物の肉を食っているので、人間が動物の肉を食っても罪ではない。」
肉食動物が草食動物を食うのは自然の合理性だが、人間が動物を食うのは人工の合理性だ。 自然の合理性から生まれた人工の合理性が、自らを生み出した自然を侮り、破壊しているから人間は地獄に陥っている。
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「人間は食うために動物を殺しているのだから、罪ではない」
客観的かつ科学的に判断するとあなたはうんこをするために物を食べている。食べるとは食べたものうんこにする行為である。 善いうんこ製造機になるか、悪いうんこ製造機にあるか選択しなければならない。 生き物をうんこにするか、フルーツをうんこにするかならフルーツをうんこにするほうが善に決まっている。野糞をすればうんこの中の種から育った樹が果実を実らせ再び人間を養うのだ。 多くの人は自分のうんこをおいしく食べることができれば働く必要もなくなって幸福になれるだろうにと日夜夢想し、実際に自分のうんこに何らかの味付けをして毎日食べているが、人類はすでに永久機関を獲得している。
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「肉屋のおじさんはニコニコしていてサービスしてくれていい人ですよ」
動物殺しが善行をすると善は動物殺しに奉仕し、動物殺しを成長させる。被災地でヤクザが炊き出ししても、その善行は悪に正当性を与えるために奉仕している。 悪人の善行とは悪による善の家畜化であり、酷使であり、悪が善を喰らい養分にする暴力と支配だが、善人の善行とは自らとの協調であり、自己成長であり、自己完成となる。善行をするから善人になるのではなく、善人だから善行をする。 対して悪人が悪行をするだけでは悪の追求を怠っている。悪は善行をして善を鎖でつなぎ、監禁し、悪に隷属させ養分にすることで悪として自己成長する。
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「動物権利は科学的・経済的ではない」
本当に科学と経済が優れているなら、人間の生命だけを優先するシステムではなく、人間と動物の生命も尊重するシステムを作り上げることができるはずだ。 もし、科学と経済が人間の生命だけしか優先できないなら、それは特定の階級や存在にしか貢献できない恣意的で能力が著しく限定された欠陥品であるのでこんなものに人類の命運を委ねるわけにはいかない。
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「虐待して動画にしたが、食ったから問題ない」
1.食いさえすれば何をしてもいいのか
2.食うためならフルーツ・野菜を食えばいいのので動物を殺害する必要がない
3.「食うため」でも充分許されないが、「虐待して動画にして食うため」ならなおさら許されない。 「食料確保」を目的にした肉食も充分許されないが、「虐待し、趣味を楽しみながら食料確保」を目的にした肉食はなおさら許されない。 「食料確保」という目的にいくつもの要素を付け加えるほど行為は正当性を失っていく。 「犯罪者を死刑のために殺す」のも充分悪いが、「犯罪者を死刑のために殺し、レイプし、拷問し、死体を切り刻む」のはもっと悪い。
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「未開部族が動物を実際に殺害する生贄の儀式を映像に収めて映画で興行収入を得たが、これはドキュメンタリー映像なので倫理的な問題はない」
1.動物を殺害するのも充分悪いが、その殺害を映像に収めて娯楽として公開し興行収入にするのはなおさら悪い。
2.「未開部族も動物だ」と見なす差別意識があるから、生贄の儀式を「自然ドキュメンタリー」として消費する。
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「戦争反対?戦地でやれ」
お前は何をやっているのか?
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「理念は現実ではない」
理念と実践の結果が現実を作り出す。
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「自然は弱者を滅ぼし、強者のみを生かすが、人工は弱者も強者も保護する。だから自然より人工のほうが優れている」
自然に生かされた強者が人工を作り、弱者を生かすシステムを作り上げている。自然の否定とは強者の否定であり、人工の否定であり、弱者の生存を否定する。
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「我らモンゴロイドは生まれながらにして醜い。善だの正義だのは容姿が優れた白人のアクセサリーに過ぎない。我らモンゴロイドは醜悪のアイデンティティを追求し、醜悪の完成度を高めなくてはならない」
大概の人間は歳を取るとブサイクになり死んで腐って骨になる。人間の最終形態とはブサイクであり骨である。ブサイクで骨なのに善と正義を求めるなんて素晴らしいことじゃありませんか?
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「動物を虐待してはいけません。なぜなら法律でそう決まっているからです」
「レイプしてはいけません。なぜなら法律でそう決まっているからです」と言うのと同じくらいひどい答えだ。
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「子どもたちに命の大切さを学ばせるため愛情をもって豚を飼育して殺してみんなで食べよう」
1.食うために見ず知らずの動物を殺すのは充分悪いが、食うために愛情をかけて育てた動物を殺すのはもっと悪い。人間性への挑戦であり、子どもを心理実験の実験台にしている。
2.命の大切を学ぶことができるのは命を大切にすることだけだ。 命を大切にすることなく命の大切さを学ぶことなどできない。
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「定義は?定義は?ねえ定義は何?定義、定義、定義」
1.自分で調べろ。私はお前の辞書ではない。
2.ガキみたいな馬鹿な質問をして何の意味がある?
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「企業は肉を売って食わせて利益を得ているので問題ない」
1.食わせるために動物を殺害するのも充分悪いが、 「食わせて金儲けする」ために動物を殺害するのはもっと悪い。 食うために動物殺害に加担する消費者は充分悪いが、 「買い、楽しみ、食って、ゴミにする」ために動物の殺害に加担する消費者はもっと悪い。
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「芸術のための動物殺害は許される」
ハリウッド映画の主流作品はAmerican Human Associationの審査の下で映画撮影中の動物福祉が厳重に管理されている。 哺乳類から昆虫、魚類に至るまで撮影で動物の不当な酷使、殺傷を禁じている。 動物が出演する大手ハリウッド映画のエンド・クレジットの最後ではAmerican Humane Association (AHA) のロゴと共に「この映画の制作の際に動物を虐待していません」(No animals were harmed during the marking of film.)という表記が入っている。
アメリカ国内で撮影された大手ハリウッド映画では娯楽性や芸術性の高さによって動物の酷使と搾取がエクスキューズされることはない。 https://humanehollywood.org/ 大手のハリウッド映画では動物の死傷シーンは合成や模型などを使っている。 例えば映画「スター・シップ・トゥルーパーズ」で子ども達がゴキブリを踏み潰すシーンではでは合成により偽物の昆虫を使用している。 https://web.archive.org/web/20170404082443/http://www.humanehollywood.org/index.php/movie-archive/item/starship-troopers 映画「メン・イン・ブラック」でウィル・スミスが踏み潰したゴキブリはマスタードの入った袋である。
AHA認証映画一覧 https://humanehollywood.org/production/
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