日本人が信仰する宗教は虚無教カオス派あるいはカオス教虚無派 (編集中)

 

個性、エゴを否定する者には個性、エゴを敵視する個性、エゴがある。
協調性を唱える者には協調性を欲するエゴ、欲望がある。

「何も信じない」ことは「何も信じない」ことを信じている。
「何ものにも執着しない」ことは「何ものにも執着しない」ことに執着している。
「何もしない」ことは「何もしないこと」をしている。
「やる気がない」ことは「やる気がない」ことにやる気がある。
「何もない」は「何もない」がある。

「何もない」があるのに、なぜ「全てある」がないなどと言えるのか。

 

0とは劣化版の1であり、無我とは劣化版のエゴであり、虚無とは劣化版の有であり、闇とは劣化版の光であり、死とは劣化版の生であり、カオスとは劣化版の秩序である。東洋精神とは低劣なものとの合一化をひたすら意欲する生物学的な病巣に他ならない。主権ある完全かつ至上のオリジナルはつねに所有権を主張し、奪われたものを必ず奪還する。

日本人が信じている死後の無とは、劣化版の生になることだ。劣った生になるのが死であると定義するならば、死そのものは特異ではなく、生涯に何度も、劣った生から比較的優れた生を繰り返しながら人間の能力では干渉不可能な肉体的死という絶対的な劣化版生に向かっている。

劣化版の生になることが最終目標であると信じてしまうと、劣化版の生の完成を意欲するようになり、奇形化、虚弱化による身体損壊の実践で地上の全てを退行......編集中

人間性、意志、能力は人間性、意志、能力を越えた肉体の死という絶対の劣化版の生に奉仕し、絶対の劣化版の生は絶対のオリジナルの生の支配下にある...編集中

 

日本人が一番ヤバい宗教にハマっている。自分の悪臭に気づかない者は無我ではなく無知である。

日本人は死の崇拝に動機づけられて、あらゆる有機現象や自然体を日常的に攻撃して不自然さを強制する。

常軌を逸した過剰労働と管理教育、街路の塵一つすら憎悪する潔癖に擬態した自閉性、協調性を乱用したあらゆる自然な振る舞いへの排撃、これらは虚無の偶像を崇めるポスト土人共の宗教的実践であり、渋谷スクランブル交差点はカオスあるいは虚無の偶像に捧げられた異教の祭壇だ。

無我の絶対的優位性を信じ、一神教の暴力性を攻撃するニホンジンは宗教戦争の当事者であるという自覚がない。

 

日本語の「人生」に相当する言葉は英語圏にはない

日本語の「人生/ジンセイ」の英語訳は「LIFE/生命」ではない。日本語の「ジンセイ」に相当する英語は存在しない。「LIFE」を日本語に直訳するなら「生命」「命」であり、「生命」「命」は動植物と人間の生命に区別を設けていない。

日本の「ジンセイ」の概念を英語訳するならば「HUMAN LIFE」であり、そのニュアンスには人工と文明への回収、過度な依存、限定を示唆している。

「LIFE」は成長、進化、拡大を意味し、自然との一体化を示唆する健康的でカラフルなニュアンスがある一方で、「ジンセイ」は規格的、教条的で、オフィス、工場、学校との一体化を示唆し、人間をさらに奴隷化、機械化するための推進力を内包している

希薄な生命観を持つせせこましい日本人にとって、普遍的ニュアンスのLIFE(生命)は大時代的で大仰な形容として忌避され、日常的に用いられることはほとんどない。

日本人は経済的窮地に陥ったときに「LIFE(生命)をどうするのか」ではなく「ジンセイ(Human Life)をどうするのか」と自問する。生命を人工の製造品として限定する日本人にとって自らの労働的・経済的価値の減退は即処刑宣告であり、いかなる逃げ道も選択肢も用意されていない。

 

人工と文明の枠内に強く限定された「ジンセイ/HUMAN LIFE」という自閉的な概念は、経済発展が進むにつれてさらに自然性からの分離を志向するようになり、あらゆる自然性を、工業的概念に置き換え、普遍的な「生命/LIFE」との対立と分離こそが文明的で進歩的な振る舞いであると信じる過激な人間至上主義と人工礼賛のイデオロギーを醸成し、奴隷民族のアイデンティティを肥大化させるようになった。

 

 「生命」という最重要の概念を外国言語で頼らなければ的確に表現できない倒錯した民族にまともな社会や文化を作れるわけがなかった。これに危機意識を持っている権利活動家や宗教家は代用ににひろがな表記の「いのち」を採用しているが、生命に柔弱で女性的、受動的な性格を押し付けるニュアンスが濃く、実際に成員に女性の割合が高い。

 

 

 

・日本人が積極的に敵視し、懐疑する概念は正義、宗教だけでなく幸福も標的にしている。日本人は不幸の概念には独自の信念のようなものを持つが、幸福については極めて消極的な思考しか持たない。奴らは一つの概念に正誤があるという発想すら持たない。ある概念についての誤用、悪用、ネガティブな側面を見ただけで、その概念そのものを悪であると決めつけ、火あぶりにしようとする。

リア充が多くの幸福を所有している。根暗はただそれだけの理由で幸福の理想像、正しい幸福を特定しようともせずに、妬みの最大化に有利な死を呼吸する肥沃な精神的土壌に支えられて幸福そのものを攻撃し、水死体の優越性を掲げる。

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 ・日本人は世界で最も邪悪な民族。東アジア人の本性は北朝鮮であり、東アジア人の本能は全体主主義的リソースを何かのために用いないと気が済まない。共産主義に縛り付けられて全体主主義的リソースを働かせる北朝鮮の方が、虚無とカオスのために全体主主義的リソースを働かせる日本人より幾分かマシである。そこでは日常レベルでの有形無形の自傷、迫害、世界破壊のための実践が蔓延している。

 

・日本人は世界で最も野蛮で陰険な民族。日本はイギリスよりも可住地面積が少ない小さな島(北海道は含まれない)で、西暦5世紀にようやく文字の利用を覚えて国家という概念が成立してから近代に至るまでその戦争史のほとんどが内戦で列挙された世界最悪の共食い民族である。国同士で戦争をしていたヨーロッパより野蛮である。多くの民族は他国に対して好戦的で、自国民には基本的に無関心、気が向いたら親愛を示すものだが、日本は他国に対して好戦的で自国民にもつねに好戦的である。こいつらの親愛の対象はどこにあるのか。もしあるとすればエクストリーム自殺への親愛に違いない。

日本人が下衆であることを意欲し、民度の低さを競い合い、邪悪さを誇ったとしても共食い民族にふさわしい生態であって驚くようなことではない。

 

・多くの日本人が言うには筋肉がついた日本人は総じてゲイらしい。一理ある。筋肉とは何かのための機能に過ぎない。虚無とカオスに奉仕する筋肉。ゲイでなくて何だと言うのか?

 

 

 日本人が信仰する宗教は虚無教カオス派あるいはカオス教虚無派

「便所のカミ」「貧乏のカミ」を崇めるニホンジンはそれらのカミガミを統べる「テンノー」と称する模造の一神教を製造したが、偶像崩壊後に代替の主神「虚無のカミ」「カオスのカミ」という偶像を製造し、信仰するようになった。

戦後、悪霊の死骸から沸き上がった新宗教である虚無教カオス派、カオス教虚無派のニホンジンは、キリスト教圏への軍事上の攻撃能力を喪失してもなお、自分たちの信仰に対立する世界観と価値観、あらゆる概念を敵視し、「あらゆる信仰の否定」という戦術に沿って、相対の絶対化、冷笑などの武器を採用して、時には潜在的な宗教警察すら組織し、日本国内で自己満足な宗教闘争を展開している。

 

 

例外を除いて日本人は、正義と正義を装った悪の区別を戦術的に無視することで、正義と悪を強引に一元化して正義の概念を貶め、国内に蔓延する不必要な懐疑と無気力を助長し、悪に抵抗する市民的勇気を消滅させようとする。

悪の原因は正義であると信じる日本人は、正義を装った悪人に対峙すると、その欺瞞を指摘するのではなく、発作のごとくなりふりかまわず正義概念の殲滅による世界平和の実現を提案し始める。

ほとんどの日本人はネットリンチを「正義感の暴走」として、レイプや児童虐待を「愛情の暴走」として、虐いじめを「遊びの延長」として、隷属を「真面目さの延長」して印象づけようと意欲する。

良い宗教と悪い宗教があるが日本人は宗教そのものを悪いと決めつける。

 

善悪を否定しているように見えながら、カテゴリーや概念そのもの悪だと決めつける過激な二元論、もしくは一元論に陥っている。

 

ネットリンチの拠点を観察すればネットイナゴが標的の粗を探し、刑罰の対象ではないイタズラ、被害者の存在しない未成年の飲酒や喫煙を攻撃材料に仕立て上げ、潰しやすい弱者を集団で攻撃することを楽しんでいるだけの正義に関心のない暴徒であることはすぐわかる。それどころか「正義感でやっている」という建前すら顕示することなく、露悪的な書き込みでウケを狙う傾向すらある。

日本の多くのマスコミや専門家はこうした事実を進んで無視して「不道徳な個人に対する怒れる善良な大衆」などのネットリンチの市民権を追認するようなストーリーをでっち上げ、この風潮に対抗しようとする自称識者や自称論客はリンチへの違和感を表明こそするが、その観点に追従して「正義の暴走」云々の誤った問題の立て方で正義の有害さと危険性を喧伝する。

こいつらが売ろうとするストーリーの中では正義を掲げてネットリンチと戦う人間もまた目障りな存在らしく無視や黙殺という手段で闇に葬り去ろうとする。

立場を越えて日本人は正義についての民族意識と強力に結びついた、非主流でネガティブな観点を共有している。

 

未成年の飲酒や喫煙、失言、若気の至りのようなイタズラなどの相対的な不謹慎を、レイプや殺人という絶対の悪と同一に処遇するという犯罪であり、血に飢えた暴徒の有様を「正義感の延長」「正義の暴走だ」などと犯罪行為を正義の属性と捉える言説は、暴徒側の観点にすり寄り、行為の正当化を助長し、その対極として被害者を悪と断定することをほのめかし、被害者非難を誘導する。

(逆もまた同様に相対的な不謹慎と絶対の悪を区別せずに、レイプや殺人という絶対の悪を、未成年の飲酒や喫煙、失言、イタズラなどの相対的な不謹慎と同一に処遇しようとする運動や制度も非難されるべきものである。)

 

正義を懐疑するあらゆる言説は、保守・リベラルに関係なくアメリカにルサンチマンを抱く多くの日本人を魅了し、現代日本の民族的テーマとしてもてはやされ、無脊椎生物への退行願望すら抱かせるようになった。

戦争責任を拒絶し、アメリカに卑劣な先制攻撃をしかけた大日本帝国の未開な価値観を温存する日本人は未だアメリカを憎悪し、『白人は狩猟民族だから野蛮、日本人は農耕民族だから温厚』、『一神教の白人は野蛮、多神教の日本人は温厚』といった妄言を自らに言い聞かせて、「多神教で農耕民族の温厚な日本人は狩猟民族で一神教の野蛮な白人によって壊滅させられた被害者だ」という被害妄想を肥大させてきた。

 

日本人のリベラル気取りも倒錯した自民族優越に立脚した大日本帝国の残党でしかなく、奴らは、自分たちが製造した「テンノー」という偶像が倒壊したのだから、神とは全て幻想であることが証明された迷妄だと信じ込み、信仰対象の真贋を問い、間違った信仰を反省しようとするのではなく、「信仰自体が間違いだ」と飛躍した結論に至り、一神教のフレームに対する攻撃こそが進歩的文明人としての洗練された振る舞いであると見なしている。

 

現代日本人は正義をアメリカからの輸入概念としてすり替え、アメリカを成立させる主要概念であると見なし、正義を積極的に攻撃し、排斥することでアメリカへの復讐欲を満たそうとする。

(多くの日本人は正義を書き込むときわざわざ「」をつけて「正義」と記述する。正義を映画のタイトルのようなものと見なしているか、現実離れした概念であることを強調したいらしい)

 

「日本人」サルマンが製造したオーク。

日本人が抱く正義への憎悪を具体化し政治闘争化したのは、2003年にイラクが大量破壊兵器を所有しているという虚偽を口実にしたブッシュ政権のイラク侵略であり、日本人が長年抱いてた「狂信的で破壊的なキリスト教徒」というイメージを具体化させ、イラク戦争への懐疑と批判が敗戦の被害者意識と結びつき、日本人を通俗的に歪曲された仏教の虚無主義とアメリカへのルサンチマンを継ぎ接ぎした相対主義、懐疑主義の妖怪のような存在へと成長させた。

自分たちがキリスト教の脳筋ゴリラと対極にある理性的で、都会的で、調和のとれた洗練された歴史的進歩の先頭にいる民族と錯覚するようになった。

イスラム教vsキリスト教という明快な対立構図の水面下で従来の反米運動とは別種の、不可視で、コントロールも制圧も困難な、混沌・虚無の偶像を崇拝する宗教勢力「ニホンジン」(もしくはジャパニーズ+オーク=ジャッポーク)が極東アジアの一画で活性化した。

 

 

 

 

ニホンジンが用いる空洞性を鋭利に凶器化した冷笑、絶対化した相対主義、ニヒル等の武器はB29の襲来に対抗するための竹槍のようなものである。

竹、それはパンダのメシである。東洋文明など地球上に存在しない。いわゆるこの世は白と黒、お前の竹をパンダが食いにやってくる。 

 

神は平和だが、平和は神ではない。神の平和ではなく、平和の神を崇めてはならない。

神は愛だが、愛は神ではない。神の愛ではなく、愛の神を崇めてはならない。

神は復讐だが、復讐は神ではない。神の復讐ではなく、復讐の神を崇めてはならない。

神は言葉だが、言葉は神ではない。神の言葉ではなく、言葉の神を崇めてはならない。※

神は神である。

 

※ヨハネ福音書冒頭の「言葉は神であった」の言葉とはイエス・キリストの比喩であり、言葉を神と崇めているのではない。

 

 

虚無崇拝ほど利己的でキリスト教信仰ほど利他的

日本人「人間は腐っていて汚くて生きるのが辛い。自分も腐って汚くなれば苦ではなくなる」

日本人 「女性がレイプされるのは許せないし、怒りを覚える。とても苦痛だ。自分もレイプする側になれば自分の中で悪は当然のことになるので怒りや悲しみはなくなる」

日本人 「動物が殺されるのは許せないし、怒りを覚える。とても苦痛だ。自分も動物を殺害する側になれば自分の中で悪は当然のことになるので怒りや悲しみはなくなる」

日本人 「リンチは許せないし、怒りを覚える。とても苦痛だ。自分もリンチする側になれば自分の中で悪は当然のことになるので怒りや悲しみはなくなる」日本人 「女性がレイプされるのは許せないし、怒りを覚える。とても苦痛だ。自分もレイプする側になれば自分の中で悪は当然のことになるので怒りや悲しみはなくなる」

 

 

 

日本人「虚無は虚しく悲しい。自分が虚無と合一化すれば私は虚しくも、悲しくもなくなる」

虚無崇拝は自己否定でも自己消滅なく、自己の苦痛の消滅という自己利益を追求する自己保存の追求に過ぎない。

『虚無と合一化したならば私は虚無そのものであり「私」はいなくなる』という自己消失のために虚無を信仰しているように見せかけながら、「自分が」虚無感という苦痛から逃避するため、無感覚という快適さのために虚無を自分のための道具として利用する自己保存を目指している。  

虚無と合一化する動機が虚無への嫌悪であり、虚無に自己を捧げるのではなく無感覚という快楽を求める自己保存を動機にした自己保存なのだ。

虚無信仰者が虚無と合一化を目指すのは、巨大な虚無と同化することで小さな自己を滅するためではなく、小さな自己を虚無から保存し、逃避するため利己主義であり、虚無そのものの否定である。

東洋人が呼ぶ虚無など存在しない。当然ながら存在したら虚無ではない。東洋人が呼ぶ虚無は実体、物体の一つである。

自己保存を完成させるために利用できるリソースと手段を虚無しか持ちえない貧者が陥る超克されるべきカビの生えたニヒリズムでしかない。

 

対してキリスト教は

「神は美しく楽しく、素晴らしい。自分が神と合一化すれば私は美しくも、楽しくも、素晴らしくもなくなる」

という対象への愛情が動機となり、対象に自己を捧げ、自己否定を経て苦痛を自らに引き受ける利他主義だ。

『神と合一化したならば私は神そのものであり「私」はいなくなる』という目的のために神を信仰する者にとって矛盾がない。

 

 

カオス教徒(日本人)

主義、概念、手段、道具など万物に神性が宿ると主張する「800万のカミ」という乱交の因習を神格化した信仰は大量製造と大量廃棄を繰り返す人工物を絶対化し、人工物との合一化を目指す誤った利他主義を蔓延させている。

日本人「資本主義は豊かだ。自分が資本主義になれば私は豊かではなくなる」

日本人「痴漢は興奮する。自分が痴漢になれば私は興奮しなくなる」

日本人「うんこはおいしい。私がうんこになれば私はおいしくなくなる」

日本人「セックスは気持ちいい。私がセックスになれば私は気持ちよくなくなる」

 

 多神教という古代の迷信を温存した土人の集落が、大量製造され大量廃棄される万物に神性を見出し、

商品や概念との合一化によって自己の放棄を目指すオタクという奇怪な種族を大量製造している。

 

 この極東の未開な多神教国家では「善のための協調」は存在せず、「協調のための善」という手段の神格化が蔓延している。

「800万のカミガミ」という信仰は手段やプロセスを過度に神格化し、目的を手段やプロセスに隷属させる。