猫との暮らしの原則101

 

 

猫の室内飼いは完全に虐待

 

 

安全と長寿と健康は手段であって、目的ではない。

 

 

猫の主体性と生存能力をしっかり認めること。猫は「死ぬだけの機械」や「破滅するだけの肉塊」ではない。

 

 

同意以外はノー。「殺されるため」「監禁されるため」「断種されるため」「自由を剥奪されるため」に生まれてくる動物はいない。

 

 

自然と人工を比較しろ。人工と人工を比較してはならない。

 

 

気まぐれ、わがまま、それが猫。

 

 

アスファルトや土、モノやカネ、誰かの気分や曖昧な概念を猫の生命と幸福と自由より優先してはならない。

 

 

人間になつかない猫を撫でようとして爪で手を引っ掻かれて、手が血まみれになると、老廃物の溜まった古い血液が排出されるので健康に良い。

 

 

猫の金玉を小指でなでる。これに勝る文明なし。

 

 

猫の顔は上から見下ろして撮影するより、下から見上げて撮影した方がとてもかわいい。人間の顔は下から見上げて撮影するより、上から見下ろして撮影したほうが見栄えよく映る。それは人間のこの世の立場についての真実を表している。

 

 

猫のヘアスタイルは丸刈りである。すなわち、あなたもバリカンで頭を丸刈りにしなければならない(その代わり帽子にはこだわるべし)。

 

 

飼育とは人間が猫に少し手をかけつつも、自然に育て、生命を尊重し支えることであって、剥奪したり支配することではない。人工か、自然かの二項対立ではない。

 

 

人間の悪は人間の仕業だ。人間の悪を不可抗力な自然現象、あって当然のものと見なさないこと。人間自体自然ではない。

 

 

悪い人間に対して人間が、沈黙したり、逃避するより、反撃する方が自然である。

 

 

外に出ないように洗脳したり条件づけるのも虐待。

 

 

因果関係を逆転してはならない。動物と人間が対立するのは人間の侵略と攻撃が原因である。

 

 

猫が使ったお皿でごはんを食べない人間は心の奥底で猫を差別している。

 

 

お毛もの(動物)達とのほのぼのした日常が無限ループする世界。それが来るべき神の王国である。

 

 

よく見ると猫は、レイプまがいのことをしているような気がする。乱交したり、近親相姦みたいなことをやってる気がする。

だけど・・・・何をやってもかわいいねえ。

同じことを人間がやるとムカつくのに、猫がやるととってもかわいい。

人類は動物に許された権利すら与えられていない地上最下層の汚物なのである。

 

 

自我を否定する者には自我を敵視し、攻撃する自我がある。何も信じない者には「何もない」ことを信じる信仰がある。「何もない」があり、「全てある」がある。

 

 

 

正義の反対は偽りの正義。というより正義の劣化版が悪である。

正義と正義を偽った悪の区別をしっかりつけること。懐疑すべきなのは正義を装った悪であって、正義そのものではない。

 

 

世の中には絶対的なものと相対的なものがある。重要なものとどうでもいいものを区別できないのは幼稚で、著しく柔軟性が欠如した態度。

生命、自由、幸福についての論争と運動を、「塩ラーメンが好きか、しょうゆラーメンが好きか」の論争と同一視するのは、

重要なものを軽んじ、軽薄なものと同じ次元に貶めようとする意欲の実践だ。

 

 

 

 

 

神の存在を信じることと、神を信じることは意味が大きく異なる。友人の存在を信じることと、友人を信じることは意味が大きく異なるように。

サタンや悪霊も神の存在を信じている。研究、データ、実験、分析で神の存在は信じるが、神を信じない者はとても虚しい。

  

 

 

オリジナルの正義があり、劣化版の正義が悪と呼ばれる。

オリジナルの白人があり、劣化版の白人がアジア人と呼ばれる。

劣化版はオリジナルから盗み、歪め、汚損する。オリジナルは劣化版から盗まれたものを奪い返そうとする。

オリジナルの猫があり、劣化版の猫が正義と呼ばれる。

劣化版の猫である正義はオリジナルの猫に献身し従順であることで、オリジナルの猫から存在価値を与えられる。