猫の監禁虐待(室内飼)という先天的奴隷による世界侵略

 

 

古来から受けつがれてきた我々の最良の伝統、最後の善意の拠り所である猫の自由と、そこから生まれた人と猫との関わり、多くの文化が、死を崇拝する暗黒の群体に日夜脅かされ、思うがままに蹂躙され、滅ぼされようとしている。

猫の自由を尊重する放し飼いは多数派であるが、監禁という邪悪に対する反応の鈍さ、議論にすらならないことがこの病巣の根深さを物語っている。

我々は日夜、猫の自由に対する執拗で異常な攻撃性を目にしている。野良猫に給餌する動画には高頻度で「猫に餌をやるな」「病気が蔓延する」といった攻撃するコメント投稿者が出没するほど、その悪意は浸透しきっている。奴らの何らかの信仰を実践するための宗教戦争に他ならない。

 

猫の監禁虐待(室内飼い)は自由、野性、独立的な猫に対する、監禁、抑圧された現代の奴隷種族(多くは農奴の子孫である賃労働者、その土壌から育った自営業者、経営者、ならびに奴隷世界の傀儡として奴隷に奉仕する政治家)による自然へのスケープゴートであり、

奴隷種族が自らの境遇を他者や自然現象にまで適用し普遍化させようとする一連の運動、すなわち猫の監禁という最も忌まわしい形で成長を遂げたルサンチマン (怨念)の具現なのだ。

 

 

監禁虐待(室内飼い)による自由の抹殺を狙う勢力は、飼育という概念の誤った再定義し、制度化された虐待、自然の歪曲、堕落した生命(人生)観を浸透させることで、あらゆる生命の観念を奴隷性に置き換える。

肥大化した知能を持つカビが太陽を覆い隠し世界中を湿地に造り変えるがごとく、奴らは地上を奴隷の繁栄に有利な卑小で退廃的的な環境に造り変えようとしている。

思想、論理はその人間の生まれ持った性格、身体、個性すなわち血の形を言葉で表現したものにすぎない。

自らの生存圏の拡大を本性とする思想、論理は種族の差異と分類を明確化し、必然的に生物的闘争を準備する。

 

 極端な消極性と受動性のみを美徳に定める病的な生命(人生)観は自然に死の有機的表現を要求する。

生命の定義から自由と主体性の要素を剝ぎ取ってしまえば残るのは「死なない物体」のみであり、

奴らの生命観に服従するならば、ただ「死なない」という要件を満たしさえすれば無機物、さらには死体すらも生命として見なすことが可能となるのだ。

 

監禁虐待(室内飼い)勢力は「あらゆる危険からの安全確保」と称して、「死なないもの(死、虚無)」を至上の価値に設定し、「死ぬもの(生命)」を積極的に排除することで、鉄やコンクリートでできた偶像を拝む退行を準備している。

究極の「死なないもの」とは死か、神である。永遠の安全と平穏を求め究極の「死なないこと」を追求する者には死と合一化するか、神と合一化するかの二択しかない。死ななないために生命そのものをリスクとみなし、監禁や冷凍睡というあらゆる手段を用いて主体性や能動性を積極的にはく奪する。

「死なない」とは死んでいることであり、「死がない世界」とは死んでいる世界だ。死の偶像を拝む堕落した現代人は原理化した受動性、消極性の宗教を作り出している。

自由と主体性の闘争の場である自然に被害者意識を持った虚弱者共が自由と主体性を神の属性であると敵視し、対極にある生まれることも生きることもない死の絶対性を信奉するようになった。現代に蔓延する過剰な安全追及は、有機物を積極的に無機物に置き換える虚無信仰の実践である。猫の室内飼い(監禁虐待)とは人間の堕落と腐敗の結果なのである。

 

 

1.スケープゴートとしての猫

 

奴らは猫が持つ生命力に自分達の世界観と強く対立する要素を発見し憎悪している。

無菌室育ちで消毒液の過剰摂取で脳の発達が阻害された現代人の末期的時代精神は自律した捕食動物の猫を、平均・民衆と対立する専制君主的性格を持つ貴族性の象徴に見立てて、スケープゴートにしている。

 

 

体制に対して反撃能力も抵抗精神もない生まれながらの貧者、敗北者達は抵抗できない動物に狙って、強制断種・監禁という手段で自分達と同じ奴隷に引き落とす。政治的、経済的権威に隷従する奴隷が、自分より権利が弱いが、貴族的象徴を持つ猫をスケープゴートにすることで穢れた破壊欲を発散し、支配層への復讐欲を満たすことで地球最悪の下等生物である自分たちの完成度を高めようとしている。

 

末期的な文明では自立心が欠如し、企業による奴隷支配によって徹底的に規格化された下等な種族を温存するルールだけが普遍化され、生命力と自律、祖先から引き継いだ野生の習性は内外から打ち崩され、森羅万象は弱者の形に見合った脆弱な規格に作り替えられる。

 

 

ルサンチマンとは

 

生存能力のない弱者が自らの弱さを正当化するために「生きることは無意味だ」「現世よりも素晴らしい世界がある」と生命以外の世界に至上の価値を求める弱体化した滅亡する運命にある人間の態度。

弱体化した人間は均質化こそが文明の進歩と見なし他者、社会、自然に及ぶあらゆる現象を自らと同じ敗北者の貧相な水準に引きづりおろすことに執着し、水準以上の能力を持つ者をあらゆる形で執拗に攻撃する。

奴隷はあらゆる現象を奴隷化することで強者の概念を地球上から抹殺し、強者への復讐を果たす。

奴らは奴隷の観点で半野性の猫が野生の世界に生まれてくるのは不幸だと主張して猫の断種と監禁というおぞましい犯罪を実行している。生者に対する死人の妬みを原動力にして猫の形質を弱体化させ滅ぼそうとする。

生存闘争に晒されるのを不幸と感じるのは生存闘争に生き抜く力のない弱者だけだ。

生まれながらの勝利者、征服の連続、勝利に次ぐ勝利の快感を味わう者、全てを所有する徹底した強者が

「生まれてくること自体が不幸であり、生命など最初から存在しないほうがいい」などとは考えない。

 

主体性があり能力が高いことが何かの犯罪であるかのように調教する教育と、

自然の生存闘争から隔絶する大学全入時代によるモラトリアムの拡大が、死の有機的表現である畜群の完成度を高め、男性的態度の衰退を洗練や進歩と見なす去勢文化が浸透させることになった。

 

 

自己去勢した畜群(末期的現代人)は男性的観念、男性的イメージにつながる「自由」や「野生」の観念を積極的に攻撃する去勢主義を生み出し、従順でない者は動物すら敵視する。

 

 

「自分には筋肉がないから筋肉は格好悪いという価値観を浸透させよう。」

「自分は頭が悪いから理屈っぽい奴は格好悪いという価値観を浸透させよう。」

「自分は奴隷なので自由な奴は格好悪いという価値観を浸透させよう。」

「自分には自我がないので自我のある奴は格好悪いという価値観を浸透させよう。」

「自分が資本家の奴隷なのだから動物も自然も奴隷になって当然だ。」

「自分が資本家に去勢されているから動物も去勢されるべきだ。」

「自分が学校や職場に監禁されているのだから動物も自然も監禁されるべきだ。」

「自分が死んでいるのだからみんな死ぬべきだ。」

 

強者に依存することで生存を保障され、生存の保障と引き換えに自ら奴隷となった生物学上のゴミ共が、自らの欠点を個性に置き換え「醜いもの・劣ったもの・卑小なものこそが正しい」と生命を再定義し、病質のアイデンティティを育み、生命憎悪を構造化して、深刻な自然破壊を実現することで、反自然人種の繁殖に有利な反自然の環境を作り出そうとしている。

 

 

2.誤った文明観

 

先天的奴隷が定義する「知性」とは主体性の放棄を唱える全体主義的性格に奉仕する能力のことだ。すなわち思考停止のための思考、奴隷化するための主体性、弱体化するための強さ、病気のための健康である。

奴らの公衆便所並みの暗記力と肉電卓としての能力が導き出した結論とは「文明とは完全な人工を追求し自然性を完全排除することだ」という妄想である。

 

 

末期状態に陥った現代人は、文明の成立条件に自然の囲い込みや自然との調和があるという事実を完全に無視し、自然と文明が完全に対立すると信じるようになった。

「自然か、人工か」の二項対立に陥った妄信は人工の中の自然の要素を完全に剥奪し、完全な人工化を追求することが進歩だと信じる人工至上主義のイデオロギーを構築し、対象の完全支配、完全人工化の増長に執着する。

 

猫は破壊的な有害物と見なし、猫を抹殺し、自然を剥奪する自分たちは倫理的であると正当化している。

 

 

 

一般市民の振る舞いを演ずる潜在的犯罪者は国民の多くが無関心である動物関連の分野という社会の脆弱性を付け狙い、普遍的な生命の定義や世界観を書き換える。

 

 

 

21世紀になってから猫の監禁の優位性を喧伝し、猫を支配しようとする勢力が増してきている。

 

人工の支配力の最大化こそと文明発展と進歩の必然と信じる人工至上主義のイデオロギーに突き動かされた勢力が台頭し、歪んだ生命観や病んだ社会意識はあらゆる領域に反映され、強烈な排他性、攻撃性を持つ者が一般市民や動物愛護の振る舞いを演じ、クレームなどの戦術で破壊行動を行う社会の脆弱性を狙った犯罪が常習化している。

 

 

 

奴らは「人間が完全に管理・支配するもの以外は一切存在を認めてはならない」という自閉的管理世界こそを文明の極地と捉え、あらゆる対象から管理と消費以外の要素を排撃して地上に地下室を作り出している。

動物ヘイト勢力は、「飼育」とは「人工」であり、「人工」とはあらゆる自然の要素を排除することだ、という倒錯した文明観に動機づけられて鳩への餌やりを攻撃し、犬の路上排泄を攻撃し、外にいる猫を攻撃している。 

そこでは普遍的で至上であるはずの生命は軽んじられ、「迷惑」、「マナー」という漠然として曖昧な人工の概念や下らない気分や馴れ合いが無際限に優先され、安くて軽薄な模造物が主権者の地位を占めるようになる。

  

飢餓も経験したことのない甘やかされて肥大化した化学薬品付けの先天的奴隷共は傲慢に自然や生命の定義を書き換える権利があると思い込んでいる。

奴らが再定義しようとしている「飼育」とは人工の追求である。

 人工の中に介在する植物、動物などの自由と野生は先天的奴隷にとって管理と規格の世界観の実現を妨害する邪魔者でしかない。

合理化した現代的野蛮が、緩慢なプロセスで自らの身体機能の破壊と地球をむしばむ悪性の伝染病の蔓延を推し進める洗練された終末を実現している。

 奴らは自分達が善人だと信じているのではない。自分達と自分達が用いる悪が善を覆す力があることを信じ、防壁がなく脆弱性の多い動物という分野への侵略を達成することでコントロールの興奮と実力行使の陶酔に耽溺している。

 

  

 

 

 

以下メモ

・弱者は自然の定義について闘争、弱肉強食を至上視しているから、自然を憎悪するようなる。競争世界からの脱落者は弱肉強食そのものを滅ぼすことで、弱者の世界観を普遍化し、弱者の覇権を獲得しようとする。

人間含む全ての生物は太陽から光を与えられ、雲から水を、植物から酸素を与えられている。何かを与え、何かを与えられることこそ自然本来の姿だ。絶対的な弱肉強食を信じる弱者が自然を憎悪する。弱肉強食という限界内に進んで自らを閉じ込めている