猫の断種(去勢・避妊手術)のよくある詭弁と反論例

 

 

「猫に餌をやるなら断種手術しろ。断種しないのは無責任」

 

猫との共存とは、猫に寄り添い、猫を尊重することであり、猫の習性、身体機能を剥奪、制限、排除、抹殺することではない。

お前が押し付けようとしているのは排除・制限・剥奪のための責任であり、共存、愛情のための責任と相反する。

 

「寄り添う」ことと「支配する」ことの境界を積極的に否定し、「相手に少しでも干渉しているなら、相手の全てを支配する権利が自分にはある」という一元化したドグマを信じて実践し、他人に強制する者ほど傲慢で強欲で不道徳な存在はいない。

 

猫から子孫を奪うだけではなく、飼い主からも孫猫を得る権利を奪っていている。団種は猫だけでなく人間も攻撃している。

 

 

 「不幸な猫を増やさないため」

 

1.手術で断種され、子孫が絶やされる猫はもっと不幸だ。

 

2.生きること、生まれてくることが不幸だという病的なニヒリズムをお前が信じているだけだ。

 

3.断種・監禁によって猫のいる光景は破壊され、猫達は数世代の内に絶滅することになる。これは「消極的殺処分」である。猫にとって最悪の災厄だ。

 

 

「断種(避妊・去勢)手術しないと病気に患りすくなる」

 

1.動物なので野生状態と比較して安全・快適なら、動物にとっての安全・幸福は達成されている。

メシをもらっている時点で野生状態と比較すると十分に健康である。

無機物のぬいぐるみ状態を基準化し比較対象にすると、呼吸すらも病気のリスクと見なすようになる。

 

2.子孫を残せなかったり、手術失敗で障害を負ったり、死のリスクに晒されるのは病気より最悪だ。

 

3.いかなる理由があっても麻酔を使って猫の体を傷つけていることに変わりない。手術の正当化は重傷や重病などの深刻かつ緊急の命の危険がある場合に限られる。人間の恣意的なリスク観点や人間都合に基づいた手術強制が許されるなら、爪切除手術、四肢切断手術すらも正当化される。

 

4.病気なのはお前だ。

 

5.安全は手段であって目的ではない。安全は猫の生命・幸福・自由を守る目的実現のための手段でしかない。手段と目的をはき違えて、お前らは猫の安全を守るために猫を滅ぼそうとしている。

 

6.「罹りやすくなる」だけでは話にならない。どの程度「罹りやすくなる」かが問題だ。

0.1%のリスク上昇は、コストをかけるべきリスクにならない。私は実際猫と長年暮らしているが病気をもらったことなど一度もない。

 

 

「猫は帰化種(外来種)であり、自然の生態系を乱す」

 

人間がイデオロギーに沿って特定の動物を殺害したり、排除することによって成立する生態系より、

人間が偶然を許容し、全ての動物を守り、尊重することによって成立する生態系の方が道徳的であり、より自然を忠実に再現している。

自然は善人にも悪人にも太陽光や雨を与えるが、特定の動物を排除したり殺害したりしない。

 

 

「私の住んでいる家は狭いし、多くの猫を養う経済力もないし、人口密集地で回りが陰険な日本人ばかりで、つねに攻撃してくるから猫を断種する他ない」

 

事情はよく理解できる。恐怖と苦痛によって自分を守るために猫の身体機能を部分的に犠牲にせざる得ない状況に追い込まれた人間まで批判しない。

自分自身をまず救うべきである。自分を守るため、猫を守るために家を売却し、劣悪な環境から脱出し、人口密度の少ない地方の中古住宅を購入してはどうか。 

 

 

「慈善は自然に反している。弱肉強食こそ自然の理」

 

地上最強の肉食動物である虎は太陽光や雨に生命を与えられ、森に住処を与えられている。

人類は植物から酸素を与えられ、雲から水を与えられている。

愛は自然であるか、無関心は自然であるか、信仰の問題ではあるが、客観的に見る限り、「全ての生命はとてつもなく巨大な力に生死を決定されている」のは事実である。

 

 

「多くの猫は私の権利を侵害しているから、猫を断種して消し去れ」

 

1.お前に命令し、他人に強要する権利はない

 

2.お前は猫から子孫を残す普遍的権利を奪い、自分の飼い猫の孫猫を望む飼い主の権利を侵害している。

 

 

「断種徹底してもブリーダーがいるので猫は絶滅しない」

 

ブリーダーの虐待は深刻な問題の一つだ。猫の存亡を商品としてコントロールする営利団体に委ねてはならない。ペット産業自体廃止すべきである。

保護団体も個人も断種を徹底しているので猫の絶滅の危機が強まっている。

 

 

「動物保護団体は猫に愛情を持って活動していますよ?」

 

善行をするから善人になるのでのではない。善人だから善行をする。

魂が汚れていて堕落した悪人が善行をして知性を持っても、善と知恵は悪人に奉仕し、悪に正当性を与え成長させるための養分になる。

悪人の善行とは悪による善の監禁であり、酷使であり、善を喰らって隷属させることで悪人はさらに罪を犯し、罪を増し加える。

彼らが方向性を誤るのは当然の現象だ。そもそも自分を創造し、生命を与えてくれた存在を無視し、侮り、存在するものを存在しないという嘘にしがみつくような人間をなぜ善人などと言えるのだろうか。

対して善人の善行とは自らとの協調であり、自己成長であり、自己完成となる。

悪人が悪行をするだけでは悪は自己完成を怠ることになる。悪は善行をすることで善を鎖でつなぎ、監禁し、悪に隷属させ養分にして悪として自己成長する。