日本では、ある日突然、公園や道が「何かをしてはいけない場所」「何かを禁止するための場所」「何かを攻撃するための場所」に変わる

 

晴天の日に気分よく外出しても、日本の道路や公園を歩けばいたるところで「何かをするな」「何かの禁止」を命令する陰険なラミネート加工の貼り紙が嫌でも目に入ってきて、一日が台無しになる。公園で写真撮影するときは背景の張り紙や看板が映りこまないように工夫が必要になるほど、日本人は大量の攻撃メッセージを至る所に神経症的に掲示している。

日本人は曖昧な根拠や概念を武器にして他人を服従させ、何かを制限、剥奪する全能感に味をしめている。

奴らは誰かに何かを不必要で過剰に禁止したり命令する態度が基本的に傲慢で不躾であることを自覚も理解もできていない野蛮人である。 

日本の公共空間では曖昧な根拠や概念に基づいた命令と専制的な制限と抑圧が蔓延し、犬の連れ込み、動物への給餌だけでなく子どもは公園でボール遊びもすることも声を出すこともできなくなっている。

 

「公園は動物に餌をあげるためにあるのではない」と奴らはラミネート加工の張り紙で不特定多数を必死に攻撃しているが、

本来、公園は「動物に餌をあげてはいけない」場所でもないし、本来、公園は「動物への給餌を妨害する」ための場所でもないし、本来、公園は「動物を餓死させたり、排除する」ための場所でもないし、本来、公園は「誰かに命令する」ための場所でもない。

奴らは「ベンチは座るためのものだ」と主張して妨害手すりを設置してホームレスを排除するが、ベンチは「寝てはいけない」ものではないし、ベンチは「寝させないために」あるのでもないし、ベンチは「ホームレスをさらなる疲労に追い込むために」あるのでもない。

世の中には絶対的なものと相対的なものがあるが、どうでもいいことに、いちいち白黒つけて執着する日本人は何かを攻撃せずにはいられない神経症に陥り、自己陶酔的な死の崇拝を実践して、奴らは外にいる人間をベルトコンベアーの荷物に作り変えようとする。

ベンチもゴミ箱もない街路は、道路とは「歩くための場所」であって、「座るための場所ではない」、「立ち止まるための場所ではない」、「犬を散歩させるための場所ではない」と信じる日本人の妄念を具現化している。街自体が見ず知らずの人間と大運動会をして一体感を得たい奴らのための場所だ。

日本では一歩外を出たら「歩行者」、「車輪の乗り物に乗っている」だけの記号になることを徹底して駆り立て、強制する過剰で誤った圧力が働いている歩行者に立ち止まる口実を与えるために、設置されたかのように大量の自販機が至る所にあるが、日本の歩道で停止することが許されるのは「自販機で飲み物を買っている人」だけである(つい最近では「スマホを見て立ち止まる人」が追加された)。

日本人が想定する狭い「普通」の定義では「紙の地図の広げて立ち止まる」「電柱に貼られた張り紙を立ち止まって見る」「ダンボール箱を持って歩く」「靴紐を結ぶためにしゃがむ」などの行動は潜在的に許されない。

声がうるさい、歩行の邪魔などの言いがかりで日本人が敵視し排除の圧力をかけたことで、路肩での住民の雑談(井戸端会議)がほぼ絶滅に追いやられたように、現状のままではジョギングすら敵視する勢力が現れるだろう。

日本人は文明を、何かを制限し、剥奪し、抹殺し、破壊し、支配するための物であると信じ、ドグマに基づき、文明を破壊装置としての悪用する運動に執念を燃やしている...編集中

 

 

日本人が信じ執着する二項対立思考

日本人は「汚れが多いか、汚れが少ない」かの量の比較ではなく「汚れているか、汚れていないか」の0か1かの二極の追求に執念を燃やしている。

日本人は「ゴミが多いか、少ないか」ではなく「ゴミがあるか、ないか」に執着し、「騒音が大きいか、少ないか」ではなく、「騒音があるか、騒音がないか」に執着する。

我々の尻が比較的清潔に保たれているのは定期的に洗っているからであって、人間である限り「汚れない」ことはありえない。「汚さない」「汚れない」を追求すると排泄しないために自殺するか他人を殺害するしかなくなる。

生物とは基本的に汚れるものであり、人間がすべき清潔への努力は、汚れたら洗う、簡単に洗えないほど強力に汚さない、すぐに洗う必要があるほど大量に汚さない調整や工夫だけだ。

人間自体ゴミであり汚れているが、日本人の「ゴミがない」「汚れがない」を追求する執念はゴミを出さないため、汚れないための生命の殺戮、生命を機械のようなものに作り替える暴力を作り出している。

日本人は多くの場面で「0か、1か」のふるい分けに執着し、執拗に1を排撃することで状況を0に同化させようとする。

虚無信仰者は「苦痛を減らす」のではなく「苦痛をなくす」ことを意欲する。

虚無信仰者の執念は「苦痛を減らす」「苦痛が少ない」のではなく「苦痛をなくす」「苦痛がない」の至上化することで死体の世界の具現化させる。

貧乏人の子どもとして生まれるのは確かに苦痛だが、 「苦痛を減らす」ことならば親の努力、もしくは親に代わる社会的なサポートで子どもの苦痛軽減をある程度は実現できるが、「苦痛をなくす」ことへの意欲は改善への人間的努力を否定し、中絶や積極的殺害すらも正当化する。

日本人が目指すのは「フンが少ない世界」ではなく、「フンがない世界」であり、「ゴミが少ない世界」ではなく、「ゴミがない世界」であり、日本人が理想とするのは「何かがない世界」、「何もない世界」、「無だけがある世界」だ虚無を信仰し、それに仕え、虚無の支配圏拡大を目指す日本人が水面下で展開する宗教的な冷戦なのである。

この東洋の未開人共は古代インド人が考えだしたゼロという概念に執着し何かを捧げずにはいられない。繰り返し述べるがギリシア数字やローマ数字にゼロの概念はない。ゼロなどというものは存在しない。ゼロは1の劣化版である。

この先天的に劣った種族が意欲しているのは劣ったものへの倒錯、奇形愛好、変質、病質へのナルシズムであり、退廃主義である。鏡に映った自分の姿に愛着を持ち、観念化した自分の姿と戯れている。

多くの西欧人は日本人の生態に対する批判的観点がナチズムや優生学に合流する危険を本能的に知っているので何も言えなくなっている。日本人は白人が作り出した反植民地主義、反ナチズムの盾に守られながら、虚無礼賛のイデオロギーをぬくぬくと育み、装備を磨き上げ支配力を蓄えている。....編集中

 

多くの日本人は受動的攻撃を評価し、能動的攻撃を軽蔑する。多くの日本人は弱弱しい感情を評価し、強い感情を軽蔑する。多くの日本人は非対立的なのではない。受動的対立を評価し、能動的対立を排撃する。劣等で矮小な存在であることを追求せざる得ないアイデンティティが種族の完成度を高めるための環境と慣習を作り出している。

奴らは受動的攻撃に対して受動的攻撃で反撃するように条件付けられている。だが、その光景を平和や礼儀として評価する根拠は一切ない。そこで繰り広げられるのは消極的残忍の無法地帯であり、それを抑止する機能も解消する観念もこの種族は持ち合わせていない。

消極性・受動性を礼賛しているはずの日本人は政治的局面では消極的・受動的秩序を敵視し、積極的・能動的秩序を受容する。日本人にとっては矛盾しているわけではない。受動だろうが能動だろうが暴力という絶対性へ隷属していることに変わりはない。

攻撃性の支配下で消極的な攻撃、消極的な悪意、消極的な憎悪を積極的に評価している日本人は、暴力性を抽象化し内面へと隔離し受動性に縛り付けることが平和を運用できる唯一の方法だと弁明しているが、行き着く先は能動的暴力と変わることがない消極的戦争、抽象的な焦土と抽象的な死体の山、湿った荒涼である。

受動的暴力の優位性を「平和」と形容して強調する誇大妄想は、その攻撃性を成立させた前提である暴力を打ち崩すことができないし、受動的な力は力そのものに優位性を証明できることはない。

受動的暴力と能動的暴力の境界を完全にコントロールする能力が人間に備わっていると信じるのは性欲や胃腸の調子を意思で完全に支配できると信じるのと同じく思い上がりだ。...編集中