思考や討論についての基本的な注意点

 

 

1.主張には必ずを理由を聞く。

 

・なぜそう考えるのか?

 

基本的に理由を述べない主張は鳴き声と同じ。

コメントの投稿フォームは主張と理由を必須項目にしないとネットの言論空間は改善しない。

 

 

2.目的を訊ねる

 

・誰のために?

・何のために?

・誰が求めているのか?

・必要があるのか?

 

ほとんどの人間は何かのために考え、何かのために行動しているので、それを明確にする。

 

 

3.主語は明確に受動態の使用は極力避けて、能動態を使う。

主語を省略し、受動態を多用した思考や論理は狂気でしかない。英語表現は基本的に主語+能動態で、非商業の世俗的な日本語表現は能動態。

 

主語 「誰が」「何が」
能動態「~した」「~する」
受動態「~された」「~される」

受動態「破壊された」
主語+能動態「彼が破壊した」

受動態「盗まれた
主語+能動態「彼が盗んだ

 

主語のない受動態「Aは殺された」
主語+受動態「AはBに殺された」
主語+能動態「BがAを殺した」

 

「破壊された」のような主語を省略し受動態を乱用する世俗的な日本語は責任者の所在を曖昧にして問題が不可効力の自然現象であるかのような印象を呼び起こし問題意識の芽生えを封殺し、隷属と思考停止へミスリードする。

日本の報道機関でも基本的に主語を欠落した受動態を多用した報道記事を書くことを禁止している。

 

受動態「猫・犬が大量殺戮(殺処分)されている

主語+能動態「役所が猫・犬を大量殺戮殺処分している

  

「猫・犬が大量殺戮(殺処分)されている」という主語が欠落した受動態では責任者、加害者が不可視化され「殺処分される猫を減らそう」という被害者に原因と責任を求める思考回路が生じやすくなる。

役所が猫・犬を大量殺戮殺処分している」という主語が明確な能動態では「殺処分する役人を減らそう」という責任者の問題を追及する思考回路が生じやすくやる。

主語が欠落した受動態の主張に対しては脳内で主語+能動態に翻訳して反論しよう。

 

世俗的な日本語とは知能の発達の遅れた奴隷が万人に思考停止と隷属を要求する前近代的で論理的思考を妨げる奴隷言語であり、人間性の著しい堕落をもたらしている。

 

 

4.審判がいないと適切な討論は成立しない。特にネットの匿名者同士の討論は審判のいないボクシングと同じ。

ネットの匿名掲示板でネットの匿名者同士が討論をしても、どちらかが感情的になり人格攻撃や罵倒を繰り出しても、ルール違反として注意する客観的で冷静な信頼性のある審判役がいないとルール無用のデスマッチになる。

さらに制限時間がないので24時間粘着できる廃人に有利。最終的に「アホ」「バカ」「うんこ」の投稿量の多い者が勝利したことになる。

さらに何らかの合意や結論に達したとしても意見を汲み取る者がいないので次のスレッドが立ったらまた一から同じのことの繰り返しになる。

 

 

5.可能性が「あるか」「ないか」ではなく可能性が「高い」か「低い」か、「多い」か、「少ないか」で判断する。

「多いか、少ないか」 「減るか、増えるか」の量の問題を 「あるか、ないか」に「0か1」の極端な二項対立にすり替える詭弁に注意しよう。

明日死ぬ可能性が「あるか」「ないか」で判断すると誰でも死ぬ可能性はあるが、可能性のみで判断すれば誰も外に出られない。外を歩いていたら隕石が降ってきて死ぬ可能性はつねに「ある」。問題は何割の人間が隕石で死んでいるのか 何パーセントの確立で隕石によよって人間が死ぬのか。

交通事故で死ぬ確率が10パーセントで、生存率90パーセントなら、人間が外出をためらう理由にはならない。

可能性が「あるか」「ないか」だけを判断基準にすると、わずか1%のリスクのために多大なコストを払って快適な生活を犠牲にすることになる。

明日人類滅亡する可能性は0.1パーセントでもある。理性のある人間なら0.1パーセントのために仕事をやめたり犯罪に走ったりしない。

わずかな確率のために全てを犠牲にする生命観は狂気だ。

 

「危険性が高まる」という詭弁に対しては危険性が「どの程度」高くなるのか反問する必要がある。

0.1%危険性が高まるだけを判断材料にすると酸素も水も全て危険要素になる。

 

当たる可能性1パーセントの宝くじに全財産投じる者は正気ではない。
当たる可能性が50パーセントの宝くじであっても全財産投じる者は多くない。

70パーセント、80パーセントになって全財産投じることができる。

 

全体の何割が危険になっているのか?何%が危険になっているのか?を明らかにしないならコストをかけるべきではない。

死ぬ確率はxパーセントだとしても、一度限りの出来事の確率は頻度の元になる集団を明らかにしていない、他の事例と比較困難であるほど例外的な出来事であるなら、推計される確率そのものが大雑把な当て推量に過ぎない

 

 

6.「私には~の権利がある」ではなく、「お前に~の権利はない」

日本人は権利そのものを西欧からの外来思想であると敵視しているので、権利を主張する者を「わがまま」「協調性がない」と攻撃したがる。

「お前に~する権利はない」「お前に要求する権利はない」と権利意識が肥大しているのはお前だと指摘すると日本人は意表を突かれるらしい。

 

 

7.非公式の場ならば怒鳴りながら論破する。

感情と論理は対立しない。善い感情と善い論理二つが合わさったものが正論となる。

大衆は善悪や真偽に関心がない。ひたすらパワーに盲従する。怒りながら、殴りながら、論破しろ。

本能は知性を生み出し、知性は本能に奉仕する。罪深く堕落した人間は本能と知性の二つを用いてようやく本来の自然状態に戻ることができる。

 

 

8.誰が何を言ったかが重要。人格、行動、言説の一貫性が至上の価値を持つ。

誰が言ったかではなく何を言ったかで評価×
何を言ったかではなく誰が言ったかで評価×
誰が何を言ったかで評価〇
人格のみでは×、行動のみでは×、言説のみでは×、人格、行動、言説全て揃って〇になる。

 

低学歴が「学歴なんて意味がない」と主張すると低知能な者が自らの性質を正当化する意図があるとみなされる。低学歴でありながら能力と成果を出した人物が言って初めて価値を持つ。
逆に高学歴が「学歴なんて意味がない」と主張するのは一貫性がない。もしこの主張に説得力があると思うなら「高学歴が言っているから」という高学歴崇拝にほかならない。
低学歴の金持ちが「学歴なんて意味がない」と主張するのと、高学歴の金持ちが「学歴なんて意味がない」と主張するのとでは説得力の重みが違う。

公衆の面前でうんこしながら道徳を説く者には説得力が欠けるが、公衆の面前でうんこしながら悪徳を説く者の説得力には重みがある。

思想、哲学においても例外ではない。ソクラテスは処刑され、パウロも処刑されている。現代世界を作った思想家のジャン・ジャック・ルソーとカール・マルクスは思想だけでなく生涯がおもしろい。

言論とは行動の広告、プロモーションである。「おしゃべり」だけしてメシを食おうなどと考えている者はハードボイルドな男ではない。

 

 

9. 世の中を支配するのはカネ、暴力、正論。

どれか一つでも欠けたら完全に無力。

暴力が全てであり、カネと言論は暴力から派生したものに過ぎない。

古代の戦場で多くの手柄を立てた戦士が貴族になり、領地で奴隷を働かせて富を築き上げ、その貴族の子孫が資産を元手に新聞社や出版社を作って奴隷共を雇い、自分の利益となる価値観や情報を広めている。これは全て歴史が証明している。

 

 

10.人間は平等ではない事実を理解して、軽度知的障害者が好む環境・文化・空間に安易に近寄らない。

IQ100以下は軽度知的障害認定すべきである。この人々は、軽度知的障害の定義を広めると福祉対象が拡大し、税金負担が増えるからという経済的事情のみでが「一般人」のカテゴリーにたまたま収まっているに過ぎない。軽度知的障害者による軽度知的障害者のための学芸会で優秀な成績を収める軽度知的障害者が数多くいるが、ただそれだけのことである。