悪が不屈の信念を持って悪であることに一貫し続けるなら善悪に関係なくある種の道徳性を帯びることになり、どれだけ悪であったとしても善と正義として定義できる。

美学や信念をこしらえ一貫性を持った悪であることを志向する悪とは絶対性の観念に囚われて、絶対性の完成を希求する善の劣った形態の一つであり、究極の悪への到達に失敗した落伍者でしかない。

あらゆるものに矛盾し、裏切り続け、自らが悪であることすら裏切り続けることで、自己保存を達成できなけば究極の悪であることの実現にはなりえない。

悪が一貫し、不変であることに執着するならば、絶対の概念に奉仕しようとする意欲であり、一貫性と普遍性という善の性質を礼賛しているからに他ならない。

究極の悪であることは自己保存すら裏切り、自己否定に転じる。さらに自己否定から自己保存に転じ、自己保存から自己否定に転じる....といった裏切りと矛盾を往復し続ける。対立概念の往復を強化の手段として善と悪、生と死、光と闇を超越した存在者として永遠の自己保存を目指す。

 

 

・「善と悪の往復を止めた善の存在」が堕落することで、「善と悪を往復する悪の存在」になり、「善と悪を往復する悪の存在」が改心し、「善と悪の往復を止めた善の存在」になり「善と悪の往復を止めた善の存在」が堕落し、「善と悪を往復する悪の存在」になり...を繰り返す。

 

 

対立概念を克服することで新たな対立概念を生み出し、対立概念の往復が拡大し、対立概念の往復を無限に繰り返すことで究極の自己保存が成立する。

対立概念を往復することで成立する究極の存在者は自己の存在を成立させるために善と悪、生と死、光と闇、一貫と矛盾、有と無という対立概念を自らの養分にするために再生産し積極的に肯定し続ける。

 

・が、対立概念の無限の往復によって成立する究極の自己保存など達成できない。

善と悪、生と死、光と闇、一貫と矛盾、有と無という概念は対立するものではない。悪とは善の劣化版であり、死とは生の劣化版であり、闇とは光の劣化版であり、無とは有の劣化版であり、カオスとは秩序の劣化版であり、相対とは絶対の劣化版である。

善と悪の往復とは優れた善と劣った善の往復であり、対立概念の往復ではなく、優劣概念の往復である。

優れた善と劣った善(悪)の往復が永続するならば、善の優劣評価を決定づけたオリジナルで完全の善が存在する。

オリジナルで完全の善は無限の往復によって生成される優れた善と劣った善の中から優れた善のみを自己に回収することで自らの完全性をより強力なものにする。

優れた善がオリジナルで完全の善に回収されたなら、対立概念によって成立していた永続性は崩壊する。対立概念の往復によって成立していた存在者の成立プロセスそのものが幻覚となる。

 

・原初に誰が善と悪を作ったか?誰が善と悪を区別したか?が問題ではなく、最初に誰が善の優劣の評価を下したかが問題になる。ニーチェの貴族道徳と奴隷道徳は考古学的証拠皆無であり旧約聖書の創世神話と同レベルのものであることは留意すべき。

 

優れた善と劣った善の往復が世界の始発だとして、それ以降は相対的な優劣しかなくなる。「優れた善と劣った善」の往復の下降から、「劣った善と”さらに”劣った善」の往復が再生産され続ける。

相対的で比較でしか成立できない下降し続ける劣+と劣-の世界で、オリジナルで完全な善が劣+に優れた善になる権利を与えることで、優れた善と劣った善の原初の対立が再生され、上層の秩序が維持される。

 

 

以上はメモ。編集中