国際テロ組織二ホン国(NS)、指定暴力団セイフ(政府)によるイルカとクジラの大量殺戮の詭弁と反論例

 

アメリカ合衆国在日大使館やホワイトハウスへ、イルカとクジラへの大量殺戮を実行する国際テロ組織二ホン国(NS)へ経済制裁、武力制裁を下すように英文メールで要望しよう。

日本国内の腐敗は日本人が改善すべきだが、日本による動物と国際社会への攻撃に対してはアメリカが責任を持って躾直す必要がある。


失敗国家日本のアジア的後進性が表面化し国際的価値観への敵対を強めている。イルカ・クジラ殺しに対する日本人の小児病的頑迷さは、民度の低さと露悪性をアイデンティティにした日本人の根深い西欧世界への憎悪と根拠のない白人への被害者意識が表面化したものであり、欧米白人へのスケープゴートとしてイルカとクジラを殺戮し血の儀式に陶酔している。

 

 

1.日本人にとってクジラとイルカへの攻撃は近代性を否定し、アメリカへの憎悪を発散するための恥知らずな生贄の儀式である。クジラ・イルカ殺戮は倫理基盤が弱く、攻撃しやすい脆弱な分野を狙った日本人による国際犯罪である。

 

2.白人を権威と見なす日本人にとって、欧米が批判しているという事実の衝撃は大きい。狂信的なナショナリズムに結びついた反発はその動揺の裏返しである。日本のメディア、出版社は戦時中と同じ情報統制を敷いて、捕鯨を正当化するプロパガンダキャンペーンを展開し、海外の捕鯨反対派の主張・著作の翻訳を自己規制している。

現代日本人にとって動物権利、ヴィーガン、あらゆる善に関する概念は日本の民族アイデンティティを脅かす欧米からの輸入思想である。戦後の経済成長期という失敗した実験期間が終わって残ったわずかばかりの収穫物、すなわち低い民度と露悪性にしがみつくことは奴らにとっての唯一の精神安定なのである。奴らは「経済大国」や「一億総中流」といった民族アイデンティティを高揚させる麻薬に代わって、「アンチ動物権利」という麻薬の味に病みつきになっている。「善のための麻薬」と「悪のための麻薬」があれば日本人は必ず「悪のための麻薬」を選択する。

徹底した露悪性と犯罪の実行こそが愛国的振る舞いであると日本人同士で評価するようになった。

 

 

3.アメリカ政府は日本人の儀式的なクジラ・イルカ殺害や政治的挑発をアメリカ支配への不満を解消するための「ガス抜き」として容認している。アメリカが誘導した日本人のコントロールプログラムの一環であり、

アメリカ政府は日本人にアメリカ兵に見立てたクジラ・イルカを大量殺戮させる海洋の第二次世界大戦を再現させ、勝利体験を与えて、民族自意識を満足させることで、恒久的な軍事ペット化を持続させるための安定を図っているのである。

 

 

 

「牛や豚、鶏を喰っているのになぜイルカ、クジラだけ喰ってはいけないのか」

 

牛や豚、鶏を喰っているのに、なぜイルカ・クジラまで喰わねばならないのか。

お前らは牛や豚、鶏を殺すだけに飽き足らず、イルカ、クジラまで殺している。

家畜(牛、豚、鶏)を殺してるから野生動物(イルカ、クジラ)も殺していいことにはならない
牛、豚、鶏の家畜で食料供給が満たされているのに、家畜ではないイルカ、クジラまで殺す日本人は、ナショナリズムで動物殺戮の儀式にふける未開人である。

 
「家畜を殺しているのだからこれ以上他の動物(イルカ、クジラ)を殺すのはやめよう」と考えるのが文明人。
「家畜を殺しているのだからもっと他の動物(イルカ、クジラ)も殺そう」とするのが野蛮人。
「家畜を殺していいのだかららイルカとクジラを殺していい」と信じる日本人は次は何を殺すつもりだろうか?

 「家畜以外の動物を殺していけないのだから全ての動物を殺すのをやめよう」と考えるのが本物の善である。

 

 

  「白人だって牛、豚、鶏を殺してる。だから欧米が日本のイルカ殺しを非難する資格はない」

 

欧米人は牛、豚、鶏を殺しているがイルカ、クジラは殺さない。
日本人は欧米人の真似をしてハンバーガーやフライドチキンを食い海外からあらゆる肉を輸入した上で、イルカ、クジラまで殺害している。
両者の殺害量を比較すればどちらがより野蛮であるかは一目瞭然だ。

 

 

「クジラが魚を食べる。魚の命を守るためにクジラを殺す必要がある」

 

魚はさらに小さい魚を食べる。日本人がクジラを殺害することで、クジラに食べられるはずだった魚が増えて小さい魚の多くの命を奪っている。つまり日本人は海の生態系を破壊している

 

 

 「人間も生態系の一部であり自然の一部だ。だからクジラを殺しても許される」

 

捕鯨船が生態系の一部であり、自然の一部であるならクジラ殺しに対抗する人間も生態系の一部であり自然の一部だ。自然と生態系になぜ必死に反発するのか?

 

 

 「文化、美、芸術、伝統を尊重しろ」

 

善意、自然、倫理、秩序、鯨の生命を尊重しろ。

善意、自然、倫理、秩序、鯨の生命より文化、美、芸術、伝統を優先してはならない。

文化、美、芸術、伝統が善意、自然、倫理、秩序、生命を生み出すのではない。

善意、自然、倫理、秩序、生命が文化、美、芸術、伝統を生み出す。

 

 

「日本ではイルカ、クジラ殺しは伝統だ」


1.伝統ならな何をしても許されるのか?

 

2.良い伝統と悪い伝統がある。良い伝統が、悪い伝統を倒すことで物事は改善される。

 

3.日本のイルカを殺す伝統=80年より、イルカを殺さない伝統=1600年の方が長い 
伝統と伝統が衝突した場合、長い歴史を持つ伝統=”イルカを殺さない伝統=3000年”が優先しなくてはならない。
さらにイルカ殺戮は日本でも一部地域民の蛮習であり日本的な伝統とみなすことはできない。日本ではイルカとクジラを食べない人間の方が多数派である。
80年の歴史しか持たないイルカ殺しの伝統が何億年もの歴史を持つ「イルカを殺さない伝統」を破壊している。
「イルカを殺さない伝統」に比べれば和歌山県のイルカ殺しは突発的なおぞましい因習でしかない。
日本という国が5世紀に成立して以降14世紀の中で3世紀しか食べていない。「食べる伝統」と「食べない伝統」が衝突するなら食べない伝統の方が長く価値が高い。
地球46億年の歴史、人類4万年の歴史に比べたらイルカ・クジラ殺しの歴史など無に等しい。
あらゆるものが生じる以前前から「イルカを殺さない伝統」が存在する。宇宙が崩壊した後にも「イルカを殺さない伝統」は存在する。
すなわち「イルカを殺さない伝統」はあらゆる価値を超越する伝統である。

 

4.伝統を主張するなら欧米から輸入した近代的技術と設備を用いた殺害をやめるべきだ。自動車を利用したマラソンはもはやマラソンではない。実際に捕鯨反対派の一部も近代技術を用いないイヌイットの捕鯨は容認している。

 

5.伝統の定義し、因習、蛮習から区別するもの

・伝統は起源が明確で誰が何のために作ったか明確にわかる。

・伝統はたまたま古くから生き残ってきたのではなく500年、1000年後も残るように意図されており、実際に存在している。

・偉大なものは生まれた当初から偉大である

・「古くて良いもの」は「もっと古くて良いもの」と比較することで因習、蛮習から区別される。

 

 

「クジラ殺し、イルカ殺しは文化だ」

 

1.文化なら何をしても許されるのか?

 

2.良い文化と悪い文化がある。

 

3.文化・趣味・概念のために動物の生命を奪ってはならない。生命は一度奪えば作り直すことができない。

 

 

 「食べるために殺しているから悪くない」

 

人間は十分に家畜を殺害し、肉を食って栄養を満たしている。食い物は他にいくらでもあるのにクジラ、イルカを殺害する必要がない。

 

 

 「食には趣味・嗜好も必要だ」

 

1 .趣味・嗜好のために国際裁判所の判決を無視し、国際世論を愚弄し、他国の権益を侵害し、地球環境にダメージを与え、絶滅危惧種の野生動物を大量殺戮するのは最悪のテロ行為だ。

 

2.動物を殺害しなくても趣味・試行・食欲を満たすことができる。

 

3.趣味・嗜好のための動物殺害は最悪の犯罪である。

 

 

 「牛肉や飼料穀物を生産するため毎年広大な森林が伐採されるなど環境破壊が進んでいる。地球の4分の3を覆う海洋の資源活用を考えてもいいのでは」

 

森林破壊の代わりに海洋破壊を提案しているに過ぎない。

 

 

 「白人が作り出した国際関係の慣例に従ってアジア各国を侵略したのに大日本帝国だけ悪者扱いされるのはおかしい。日本は悪くない。日本は被害者。欧米が悪い。だから腹いせにクジラを殺す」

 

強者と戦えないから腹いせに動物を殺害するような品性下劣な民族には何かを支配する権利などない。

 

 

「牛の肉は環境負荷が強いのでクジラ肉を代替にすべきだ」

 

すでに植物性の代替肉がある。肉食をやめた方が環境負荷低減に最適だ。限りある時間と労力を浪費して過剰な選択肢を維持する必要はない。

 

 

「ゆっくり時間をかけて何年も、何十年も座ってじっくり議論すればきっと解決できる」

 

日本人はカネと労力をかけて今この瞬間にも毎日クジラを大量殺戮している。緩慢な議論が終わることには取り返しのつかない事態になっている。

 

 

 

 「イルカとクジラの大量殺戮が嫌なら日本から出ていけ」

 

日本人のアイデンティティや定義は動物虐殺であり、自分たちの卑劣で邪悪な本性を認めているということか。

 

 

 「欧米は自分達の価値観を我々に押し付けるな」

 

1.価値観のために生命を尊重し、守ることは許されても、価値観のために生命を奪うことは許されない。生命は一度奪えば作り直すことができないからだ。

 

2.動物殺戮は価値観、多様性という概念を生み出し支えてきた土台である倫理そのものを打ち崩そうとしている。

 

3.文明と隔絶した未開人でなかれば主張する権利がない。欧米の発明品を消費し、アメリカに中国・北朝鮮の侵略から庇護され、マクドナルドを食らって洋服着て欧米から恩恵を受けている日本人は欧米からの倫理的、合理的要求に従う義務がある。 

アメリカに恩を仇で返し、伝統と称する因習に固執するなら全ての近代文明を放棄すべきだ。

 

4.日本人が欧米の価値観を剽窃し、悪用しているからこうなった。お前らが着物を着てチョンマゲにしていればこんなことにはならなかった。

 

5.そんなに欧米の価値観が嫌いなら近代文明を全放棄し、江戸時代に戻ればいい。

 

 

「アメリカだってかつてクジラを殺していた。かつてクジラを殺していたアメリカが残酷だやめろと命令するのは身勝手だ。だからクジラ殺害は問題ではない。」

 

殺人犯が「殺人はよくない」と主張しても、その主張自体が嘘であることにはならなし、誰かの殺人を正当化する理由にはならない。

アメリカはクジラ殺害をやめており、国際基準化のために何十年も努力している。

「我々はやめた。だからお前らもやめろ。前進しよう」という国際社会からの要求に対して

 「お前もかつてやっていたから我々は現在やめないし、進歩しない」という主張は、ただの後退への執着である。

 

 

  「日本の権利を守れ」

 

自分達の権利のために、国際裁判所の判決、国際社会からの要求、動物の生命を軽んじ、否定してはならない。

 

 

実際に日本政府が発表した挑発的な詭弁

 

日本政府「鯨類の持続的利用は今や世界の多くの国が認める考え方であり、いかなる状況でも、資源が豊富であっても捕鯨を認めないとの考え方こそが世界で孤立しつつある。

とかく欧米の一部の国々の世論を世界の世論ととり違える傾向があるが、中国、韓国、ロシア、ノルウェー、アイスランド、そして多くの開発途上国が持続的捕鯨を支持している。

世界の150ヶ国以上が加盟しているCITES(絶滅にひんした動植物の国際取引に関する条約)では鯨類の持続的利用を認める国が常に過半数を占めているし、FAO(国連食糧農業機構)では2001年に鯨類と漁業の競合についてFAOが調査を行うことが満場一致で合意されている。

また、そもそも、科学的に見て豊富な鯨類を持続的に利用することが可能であり、国際捕鯨取締条約の基本原則も鯨類資源の持続的利用であるときに、一部の国の政治的、感情的反捕鯨圧力に屈しなければならないのか。

特に、これらの国々が、自国では様々な野生生物の持続的利用を認めていることを考えると、なおさらこの圧力は理不尽である。」

 

(「科学的」云々の口実は国際法廷で否定されているのでここでは省略)

確かに開発途上国の数は北米、ヨーロッパの国々より多い。だが多数決決原理で世界の過半数である開発途上国の感情、価値観、論理を最優先し、標準化したら世界はどうなるだろうか?中国やロシア、多くの開発途上国の水準に世界は従うべきだろうか?

アフリカとイスラム諸国の方が国は多い。だからといってアフリカとイスラム諸国の慣習を主流化し、無際限に支持し、尊重すれば世界はさらなる混乱が起きる。

多数決原理は時に衆愚政治を招く。価値の高い多数決原理の維持には安定し、成熟した社会が前提となる。多くの先進国では多数決は確かに価値の高いシステムとなる場合もある。

だが、国際社会の精神年齢はどの程度のものだろう?つねに戦争が起こり、著しい分断と対立が常態化している不安定で未成熟な国際社会が多数決原理に依存することは破壊的な結果を招く。

上院制、下院制の間接的民主制こそが国際社会維持のための最適の手段である。

先進国が決定した方針に日本含む後進国が従うことで国際秩序の安定は実現する。

 

 

日本政府「今後も人口増加が避けられないことから、(捕肉の)食糧確保のオプションはすべてオープンにしておく必要が有る。」

 

毎年世界の人口は増大しているが、世界では食料生産量の3分の1に当たる約13億トンの食料が毎年廃棄されている。

人口増加=食糧危機を意味するのではない。日本政府の提案は誰も必要としていない。

限りある時間と労力を浪費して過剰な選択肢を維持することは非生産的で非建設的である。

 

 

日本政府「生物資源を利用するための科学データは統計学的にある基準以上の「確かさ」が必要とされる。

何十万頭もいる南半球のミンク鯨の科学データについて必要最低限の「確かさ」を得るためには一定の数のサンプルが必要となる。

例えば、京都市の人口は約70万人であるが、京都市民の平均身長を知りたいと思ったとき、10人の身長を図るだけで果たして平均身長がわかるであろうか。

100人ではどうだろう。1万人の身長がわかればかなり確かな答えが出るのではないだろか。

このようにして、更に数値のバラツキなどの要素を考慮すれば最低限必要なサンプル数が算出できる。

調査捕鯨の捕獲頭数もこのような統計学的な計算を行って決められた数字なのである。」

 

データやサンプル数や計算のために生命を大量殺戮してもよいのか。

科学は手段であって目的ではない。科学のために動物の生命、自然環境を犠牲にしてはならない。

動物の生命、自然保護のために科学は用いられるべきである。

科学は生命を殺すことはできても、生命を無から創造することも、蘇らせることもできないのだ。

科学至上主義の破壊的な実践である。

 

 

 

日本政府「日本の鯨類捕獲調査などの結果、ミンク鯨などはすべての生物資源の中でもっとも科学的知見が蓄積されている生物である。

しかし、科学的探求は奥深く、調査すればするほど古い課題が解決されながらも新しい課題が生まれていく。

その意味で、まだまだ鯨については調査や研究すべきことが有るが、だからと言って1頭も獲るべきではないと主張することはむしろ非科学的で極端である。

科学的知見の不確実さにあわせて、慎重に捕獲枠を設定していけばいい(すなわち、不確実さが大きければ捕獲枠を小さくする)わけで、これが改訂管理方式の基本的考え方である。

更に、RMPでは、天変地異や環境悪化が起こって突然鯨の数が半分に減ってしまう場合や昔の捕獲実績のデータがまったく間違っていた場合でも、

鯨資源が枯渇しないような捕獲枠を出すことが求められているし、最新の資源の大きさに関する科学データが提供されなければ、捕獲枠を徐々に減らしていくフェーズアウトルールも有る。

鯨の科学はここまで進んでおり、わかないから獲らないと言うのが、いかに幼稚な議論であるかは明らかではないだろうか。」

 

一度殺害したクジラは甦ることができないという事実はバカで幼稚な日本人でもわかるはずだ。

クジラの数を守るだけではなく、クジラの生命を人間から守れと言っているのだ。

科学的探究、科学的知見、科学的課題、科学的的研究、科学的調査のために何千頭も鯨を殺害していいと主張することは、科学至上主義の狂信的なイデオロギーに駆り立てられた狂気の実践である。

 

  

日本政府「食は量さえ足りれば何を食べても変わらないと言うものではない。

世界各国の民族は、それぞれの生活環境、自然、そして歴史に基づく食文化を発展、維持させてきた。

文化の重要性は、たとえその文化が日常的なものでは無くなっても、減少するものではない。

近年日本人は滅多に着物を着ないが、着物が日本文化であることに異論はないはずである。」

 

1.まずお前が理解しなければならないのは鯨は着物ではない。服と生物の区別はつけるべきである。

 

2.文化のためなら何をしても許されるのか?

文化のための動物殺戮は動物虐待である。文化のための動物殺戮が正当化されるなら動物虐待の動画も正当化されえる。

 

3.殺すのが文化であるなら、殺さないのも人間に本能的に備わった歴史と伝統のある文化である。殺す文化は殺さない文化、愛情の文化をつねに攻撃し、破壊している。

殺さない文化、愛情の文化の重要性は、日常的で、増大しているのである。

 

4.大量殺戮は価値観、多様性、権利の概念を生み出し、支えている土台である道徳そのものを打ち崩す。

 

 

日本政府「鯨に限らず、すべての動物が特別である。すべての動物がかけがえの無い生命を持ち、長い地球の歴史の中での進化を受けて現在の姿で存在している。そして、すべての動物が食う食われるの関係で生態系の中での役割を果たしている。人間もこの生態系の一部であり、他の生物の命をいただくとで生存している。われわれはすべての生物を利用するにあたって、その命の大切さを噛みしめながら利用する義務が有る」

 

1.捕鯨船が生態系の一部であり自然であるなら、捕鯨に反対する人間も生態系の一部であり自然である。なぜお前たちは生態系と自然に必死に反発するのか?

 

2.「命の大切さを噛みしめている」なら奴隷化や殺害が許されるのか?

お前は傲慢に、殺されたクジラの生命より、殺した自分の感傷を尊重し優先しろと言っている。

殺される側の生命より、殺す側の感傷を優先してはならない。

 

3.多くの人間が負っている生命の大切さを噛みしめながら生命を尊重し守る義務を否定している。

 

 

 日本政府「捕鯨の問題は食べるものが有るか無いかと言った単純な問題ではない。

科学的にも、法的にも正当な捕鯨が、世界的に認められている持続的利用の原則に反して否定されてきたと言う大きな問題がある」

 

問題を過剰に複雑化して、現状維持に執着する必要もない。

捕鯨は(日本政府がカネで買った多数の)後進国の票で支持された、非科学的で、全ての国際秩序の原則に反する違法な犯罪行為である。

 

 

 「犬猫を育てる自由があるように、クジラを食うのも自由だ」

 

 クジラを食うのが自由なら、クジラ殺しに対抗するのも自由だ。