「室内飼い」とは

 

 

「室内飼い」とは21世紀以降に登場した猫に対する環境型虐待の新造語である。

 

「室内飼い」は猫を終生部屋やケージに監禁することで、生来的なアイデンティティ、本能、主体性を剥奪し、習性を破壊、怠惰を強制、他の猫との交流を断絶することで肉体と精神に消極的拷問を加える環境型動物虐待についての「大衆化」された表現である。 またはリードで拘束した散歩以外は外出させないなど猫の自由を日常的に制限、コントロールすることも「室内飼い」に含まれる。

「室内飼い」は2010年代から、室内への強制収容という手段で猫の絶滅を目指す動物虐待運動として世界各地で伝染し、「合法的でポップな動物虐待の消費行動」として幅広い世代に広がりを見せている。

 

この環境型虐待の実践者は猫が自由であることのリスクを誇張し、監禁の安全性を唱えることで自分達の虐待行為の道徳的な優位性を強調する。環境型虐待の実践者とマスコミ、行政、獣医師などの周辺の支持勢力は、猫の自由行動を「因習」「克服されるべき過去の遺物」と印象操作を行うことで、多数派である放し飼いの飼い主達をマイノリティに追いやろうとする。 

 

 

 

多くの迫害運動の戦略と同じく、「室内飼い」の主流化に服従しない者を「非社会的」、「人間的に未熟である」ことを印象付けようとする様々な試みがなされている。監禁こそ文明の進歩、文明人の成熟の証であるという人工至上主義を最大化するスローガンの下で猫を排除するキャンペーンを展開している。

あらゆる人間性は人工至上主義に従順でなくてはならないという社会意識を持った「室内飼い」勢力は、市民に自分達のイデオロギーへの奉仕義務を押し付け、モノや気分や人工概念よりも生命と自由を重視する人間を敵視し、自分達が製造したルールに服従しないその「無責任」さや「不道徳」を指摘することで迫害しようとする。

 

 

この勢力が用いる主な戦略には、

・猫の衛生リスクを過度に誇張し、監禁実践者こそが公衆衛生の課題取り組みに従順な市民であるかのように印象を作り出す。

 

・外出のリスクを過度に誇張し、「外にいる猫は必ず死ぬ」と唱える。事件・事故・怪我を「多いか・少ない」かではなく、「あるか、ないか」の0か1かの二項対立へ誘導する。外で隕石に当たる可能性が1%でもあれば「危険がある」であり、危険が「多いか、少ないか」で判断できない。

 

・放し飼いに貼るための「時代遅れ」「退行的」のラベルの製造。「室内飼い」が主流化しているという捏造した流行や設定を前提にした上で、放し飼いが少数派であるかのように錯覚させる持論を展開する。

 

・母性原理主義。極端な過保護こそ保護者にふさわしい唯一の資質であると唱え、喧嘩、怪我、病気などのある程度の試練や危険に寛容な父性的な感覚をほのめかす者を「不道徳」で「反社会的」で「野蛮」な人物として攻撃する。

 

 

 

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「室内飼い」勢力の戦術・アプローチ


・動物はモノであるという前提の下で「管理された動物」と「管理されてない動物」の区別を強化。

「管理された動物」にのみ商品価値を認めて、「管理されてない動物」をあらゆる文明の敵対者と設定することで、人々の猫に対する「被害者意識」や「防衛意識」を鼓舞して猫に対する攻撃性を助長する。

 

フンや鳴き声などの自由に不可欠な生理機能を攻撃することで、猫の自由が害悪、さらには猫の存在自体を害悪視するヒステリックで偏狭な観点の多数派形成。動物の存在の抹殺が唯一で必然の民主的解決策にならざる得ない状況を作り出す。

 

・生命の定義を極端な受動的存在に書き換える。

生命の目的を「死なないこと」だけに設定。生命と死体の区別を積極的に否定する。行動分析学の「死人テスト」の要件を満たしていない「死体でもできる」極端な受動的態度の習性化・発展を中心課題にしている。

 

・相対的なモノと絶対的な生命の価値の逆転

相対的な損失に対して絶対的な損失をもって補償させようとする。

自宅敷地内にフン尿がある程度の相対的な損失を受けた者が、猫に対して自由・生命・幸福を監禁等の手段で剥奪することで絶対的な損失を与えて補わせようとする。

感情問題や金銭問題の相対的な価値と、生命・幸福・自由の絶対的価値を強引に均質化して普遍的価値の優位性を引き下げる。自分の気分に関する相対的価値の無際限な優遇を唱えることで感情問題と生命の問題を交換可能なものにする。

 

保健所の猫大量殺戮への必要性・合理性・倫理問題についての思考停止と追従。保健所による動物大量殺戮の正当化に加担。

 

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「室内飼い」の思考回路・主張


・「多いか・少ない」かではなく、「あるか、ないか」の0か1かの二項対立への強い執着。猫の振る舞いに対する受忍限度水準の引き下げの加速。

猫の鳴き声やフンが「多いか、少ないか」の量の観点ではなく、「あるか、ないか」だけに着目し、量と頻度を一切考慮せずに鳴き声を出す・フンをすること自体を問題化し、「鳴き声・フン尿のゼロ」を目標にして監禁という手段で猫の抹殺を試みている。

 

・「室内飼い」勢力は「動物はモノである」という動物虐待者と同じ価値観を共有しているため、犯罪者の精神構造と強い親和性や類似性を見せることがある。

交通事故死、動物虐待が起きるのは「猫がうるさいのが悪い」、「外にいる動物が悪い」という飼い主もしくは猫の自業自得であると主張する被害者非難に積極的に行う。

裏返せば「うるさい動物は殺していい」「外にいる動物は殺していい」と動物虐待に市民権を付与するようなメッセージを積極的に発信することで、犯罪を助長し、犯罪に対する市民の抵抗力を減殺している。

 

動物虐待を「自由に対する懲罰」として肯定し、犯罪者を自然現象の体現者、体制の執行者として評価していることをほのめかす。

犯罪を作り出すのは犯罪者ではなく、被害者であるかのように喧伝し、監禁こそが唯一の予防策、解決策であるかのようにアナウンスする。

 

 

動物虐待の支持勢力の言説

動物虐待支持者は動物虐待事件のニュースに関するコメントで動物虐待に否定的に反応する人々を感情的で、思考停止であるかのような印象操作を行う。

「動物虐待は本当に悪いことなのか?」という過剰な懐疑が導き出す倒錯した議論の先に真の民主主義の繁栄が約束されているようなコメントを繰り返し行う。

過剰な懐疑と犯罪の黙認が文明繁栄の要件であるかのように喧伝し、犯罪に対する判断保留こそが成熟して洗練された理性の証明であるかのように印象づけようとする。 

 

フンや鳴き声を「被害」や「公害」と定義し、自由な猫に対する自分達の過剰な被害者意識を強調。動物虐待の被害者である猫や飼い主に対して被害者避難を行い、「動物虐待をする権利」を擁護する。

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「外来種」イエス・キリスト 猫攻撃を支持する政治的立場


リベラル的な文脈から急成長した極端に受動的な生命観、男性的な概念全般に対する敵意と憎悪、その感情に基づいて設計された社会構造は、自由な肉食動物を「男性性」や「前近代性」のイメージと強く結びけ、猫を監禁し抹消することで『旧体制』の土台を周辺から打ち崩そうとする。

人工と理性を拝む監禁虐待の実践者と支持勢力は、猫と、伝統的な猫の自由を支持する”保守派”の飼い主達を自分達の洗練された「進歩」の障害物と決めつけ邪悪な暴力性を遺憾なく発揮して攻撃する。

リベラルは多くの人々に対して動物を適切にかわいがり、生命尊重し、保守的で伝統的に動物と共生することを理由に『過激主義者』のラベルを貼る。

自分たちが作り出した人工と理性支配のイデオロギーに服従しない反乱分子だからだ。リベラルは自分の理性や数字で定義できない感覚、価値観、世界観、概念を殲滅対象にする。リベラルは伝統宗教、人間に本能的に受け継がれた自然観、生命観を歪曲し破壊する。

地母神崇拝によって動員されたモダンな魔女の様相すら呈するリベラル系フェミニストと、それらに訓練され条件づけられた諸勢力にとっては猫は手頃で合法的に攻撃できる男性的象徴として格好の標的になっている。

 

 

唯我性、自律性、球体感、瞑想的な落ち着き、人間に寄り添い、黄金の目で人間を監視しているかのように振る舞う猫は神権を象徴する動物として、カトリック(Cat-Holic/訳すと猫中毒)の強権支配に不満を持った下層民がスケープゴートにした過去がある。

第三世界主義の立場から唯一神教の完全抹殺を試みる国際教、世界教という新興宗教勢力であるリベラルと国連にとっては、帰化種(外来種)は「植民地主義時代の白人キリスト教徒の侵略者」の象徴であり、宗教的スケープゴートに指定した帰化種(外来種)の大量殺戮の合理化を主導することで脆弱性がある周辺の分野を征服し、自分たちの価値体系を人間社会へ浸透させるための準備を進める。

リベラルは有色人種、女性、性的マイノリティ、東洋への歩み寄り、地球環境、動物すらも伝統的なキリスト教的価値体系の破壊を達成するための棍棒として利用しているに過ぎない。あらゆる弱者の権利はリベラルの文脈に組み込まれることで道具として搾取され、使い捨てられ、あらゆるものが死滅する。

反西欧主義・アンチキリスト主義という共通課題に沿う形でしか方向性が生じない「日本人」に対してはリベラルや保守の区別は意味をなさない。「日本人」というアイデンティティからは反西欧主義の表現スタイルの違いしか生まれない。本来ならば「日本人」は国際政治の言論空間に足を踏み入れる資格すらない。

「日本人」は隠ぺいされた反西欧主義・アンチキリスト主義であるアメリカ人リベラルから自分たちに都合の良いアイデアばかりを輸入しナチスと「大日本帝国」のような同盟関係を構築している。

宇宙空間そのものがリベラルであり、いかなる右翼も細分化されたリベラルの一派でしかなく、それらはリベラル的施策の微調整に従事することと引き換えにリベラル覇権から温情を施され生存の保障を与えられているに過ぎない。全世界に遍在する有形無形のリベラル性、宇宙というリベラルと対峙できない者は真の保守とは言えない。

 

 

 

 

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