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「ヤバい神: 不都合な記事による旧約聖書入門」の書籍レビュー

この書籍は2022年3月25日に発売されたが、発売から約二年後の2024年2月24日にブクログという書籍レビューサイトに投稿された「神は理解不能」「人間には神は解釈できない」「神に分かりやすい物語や道徳を付与した事物は虚構」といった内容のレビューが投稿から10日もしない内に「いいね」数が42もついてトップレビューになっている。

https://booklog.jp/item/1/4400119084

この書籍に投稿されたレビューは発売から約二年間で全10件だが、全10件中、いいね数14のレビューが1件、いいね数1のレビューが2件、いいね数0のレビューが6件。このレビューだけ投稿から10日もしない内に「いいね」数が42もついている。何かの意図を持った組織的工作だろうか?あるいは日本人の民族意識が生み出す人種的能力の限界を示す日常的な光景かもしれない。

 

 

・霊的下層階級にとって正義とは霊的上流階級の独占概念である。霊的下層階級は正義を唱える霊的上流階級を霊的ダーウィニズム、霊的優生学に基づき、霊的低身長、霊的筋力の乏しい霊的下層階級を霊的T4作戦によって抹殺しようとする霊的・物理的ナチスと見なしている。

 

日本国内で虚無教徒と足並みをそろえて、価値相対主義への強い同調をほのめかし、絶対と正義の概念への攻撃を習性とするキリスト教虚無派、虚無教キリスト派は予定説を裏付けようとするかのごとく霊的下層階級の立場から、霊的上流階級の独占概念と見なす絶対と正義の概念に対して内外からの汚染を企て、霊的覇権を覆し、霊的下層階級が主体となった霊的共産主義の確立を目指そうとしている。

 

キリスト教虚無派、虚無教キリスト派、キリスト教カオス派、カオス教キリスト派あるいは「ハッピーの科学キリスト派」は現代日本で国家神道に置き換わって主流宗教となった虚無教/カオス教の文脈にキリスト教精神を順応させようとする挑戦に熱中している。

これらの勢力は霊的弱者への寄り添いを装って、霊的資本主義・霊的能力主義、霊的自己責任論への怨恨に満ち溢れて、霊的弱者が霊的強者になろうとする霊的向上心と霊的努力を放棄させ、霊的弱者であること自体を絶対的価値に設定する攻撃手段を用いて、霊的価値転覆を図っている。

 

霊的身体能力・霊的IQ・霊的身長・霊的骨格は生まれる前から与えられた運である。アメリカの学校ヒエラルヒーに例えると、裕福な父親に愛情と庇護を受けて育った生まれつき霊的運動能力の高い霊的ジョックス(霊的アメフト野郎)は自然と善行を行うものだが、霊的上流階級が自分たちの水準を生まれつきの霊的運動音痴に押し付けることで、霊的運動音痴である霊的ナード(霊的根暗)は霊的筋肉、霊的骨格そのものをさらに忌避し憎悪するようになっている。

 

正義と絶対性の概念は霊的高水準に達しない者への霊種差別を示唆し霊的多様性を否定する霊的差別用語と見なされている。霊的五体不満足な霊的障害者に霊的スポーツの霊的楽しさや霊的効能、霊的運動不足が招く霊的習慣病のリスクを説くこと自体が無自覚な霊的差別だと批判する誤った過激な霊的ポリティカル・コレクトレスが絶対性と正義についての霊的萎縮効果を引き起こし、絶対性と正義に対する攻撃性を助長している。

 

多くの霊的上流階級は霊的社会福祉によって自らが受けた恩恵を霊的下層階級に還元し、霊的公平を目指すためにつねに努力しているが、霊的生活保護、霊的ベーシックインカム、霊的フードバンクで暮らす霊的下層階級に霊的スティーブ・ジョブスの伝記本を渡すような、悪質な皮肉や嫌がらせと受け取られても仕方がない無為無策の結果、霊的下層階級は不満を募らせ、一部は過激化し、霊的上流階級を自分たちを霊的霊的ガス室に送り霊的絶滅を計画する霊的・物理的ナチであるとの偏見を信じ、霊的・物理的ナチが用いる絶対と正義という概念の有害性をしきりに喧伝することで霊的ヒエラルヒーを覆そうとしている。

 

多くの霊的下層階級は霊的障害、霊的寝たきり、霊的無職への強い信念から霊的生活保護を受給しているが、この中からまれに霊的強盗、霊的共産主義に転じる者が出現する。彼らは霊的上流階級の霊的下層階級に対する霊的社会福祉の可能性を完全に否定し、霊的共産主義運動あるいは霊的テロによって霊的資本主義・霊的能力主義体制の破壊を試みている。

 

「人間は完全に神を理解できない。神についてのあらゆる理解は傲慢であるので、全て放棄すべきである」と人間は神を完全に理解できないのだから理解できる部分も理解すべきではないというキリスト教不可知論を捏造する土俗的な日本の虚無信仰やカオス信仰と混交したキリスト教虚無派、虚無教キリスト派、キリスト教カオス派、カオス教キリスト派あるいは「ハッピーの科学キリスト派」は

自己否定しないものを全て悪と見なし「善が善であること」の自己否定すらそそのかすことで善を相対主義やニヒリズムのための生贄に捧げる(相対主義自体が偽典である共観福音書の教義から派生したものだが)。神と人間の関係性、認識や理解にまで禁欲主義を徹底させるキリスト教不可知論は、神は自らの意志を人間の意志と感情を通して表現しないと信じ、人間と神の分断をひたすら強調して雲の化け物を拝むようにそそのかす。奴らは水をワインに変えるのではなく、ワインを水に変え、水の上を歩くのではなく水の中を歩き、自らを掲げられた青銅の蛇に例えるのではなく、蛇を虐待することを楽しむ。

 

 

 

・反プーチン活動家のアレクセイ・ナワリヌイが毒を盛られて航空機内で呻き声を上げている映像を見たが、虐待された羊かウシ科の動物の苦痛の呻き声のようだ。旧約時代の古代イスラエル人が原始宗教から始まった悪魔に捧げる生贄の儀式を神の名を使って踏襲して羊を大量殺戮したから人類はその報いを受けているのではないのか。かわいいお毛もの(動物)達と嬉しそうに一緒にいるお毛もの好きのプーチンの画像を見る限り、プーチンをどうしても嫌いになれない。本当はいい奴のはずなんだが。

 

  

 

・予定説は真実であるように思える。キリスト信仰が宗教団体として成立できるのか大いに疑問だ。善人は自分の力で善人になったのではない。高い道徳的感受性、善悪を厳密に区別する能力は神が特定の人々に与えた才能である。神から得た恩恵は神に還元しなければならない。本来は腐って汚れ切っている邪悪な人類という生命体が善意を持っているならその善意は人類のものではないし、この世のものですらない。「誰でもわずかばかりの善の力を持っている」のではなく、「誰にでもわずかばかりに善の力を与えている、あるいは奪われている存在がある」のである。誰にでもわずかばかりに善の力を与える、あるいは奪われる神は、特定の人々に多くの善の力を与えることができる、あるいは多く奪われている。自分が自分の善意の創造者であると考えるのは極めて傲慢だ。人間が持っている善意は人間のものではない。善意はその人間の中に住み着いているだけであり人間が持つ権利はその善意を養い、支えることであって、監禁し、搾取し、支配し殺害する権利などない。

 

神の摂理なのか宇宙の構造なのかは知らないが霊的領域すらピラミッド型になっているようだ。様々な領域の頂点に救済に選ばれた者が位置し、その下の救済に選ばれていない者達は救済に選ばれた者に奉仕し承認されることで救済にあずかろうとする。現在「キリスト教」と呼ばれている教会カルトが形成した聖職者がカネヅルの平信徒を搾取するピラミッド型のヒエラルヒーは悪魔が作り出した真実のパロディだろう。選ばれし者様の霊的あるいは物理的イチモツをシャブれば憐れな選ばれざれし者共は天国に行けるようになっているらしい。

「下らん者共を連れてくるな」と神が望んでおられるか、そいつ自身が罪に陥らないために本当の善人は孤立しやすいようになっているのかもしれない。

いずれにせよカスはやること、考えること全てがカスだ。カスが今はまともに見えても、カスが光を養分にしてさらにでかいカスに成長するためのプロセスでしかない。それはそのカスが生まれる前からカスであることを決定されているからだ。カスは信じても信じることができない。信じれば信じるほど信じる前よりも悪い状態になる。信じることすら悪の成長に奉仕するように作られている。「信じないで悪い状態のままより、信じてもっと悪くなった方がいい」という欲望が奴らの信仰心の源だ。

善行をするから善の種になるのではない。善の種だから善行をする。悪の種が善行をしても、善は悪の種に服従させられ、悪の種の正当性を築き成長させるための養分になる。

悪の種は善行という手段によって善を監禁し、家畜化し、酷使し、善を喰らって肥え太り、さらに罪を増し加える。対して善の種の善行とは自らとの協調であり、自己成長であり、自己完成となる。善行をするから善人になるのではなく、善人だから善行をする。

神を信じるから善の種になるのではなく、善の種だから神を信じるようになる。生まれつき悪に定められた者が神を信仰しても良くて神の名を使って現実逃避、馴れ合い、パーティー、教会という偶像崇拝、金儲けに耽り、悪くて誇大妄想の犯罪者になる。

神の名をメシの種にしている時点でその者は神から見捨てられている。神の名を使って稼いだカネ、それがその人間の全てだ。だから神は神の名をほとんど用いずに神を表現する優れた映画、音楽、文学、哲学を祝福し教会に代わる力を与えている。そして、かつての教会と同じように、「オタク」と呼ばれる腐臭漂う敗残者の群れを生み出し、堕落と栄華がせめぎあったあげく、克服されるのを待つだけの存在に成り下がろうとしている。

 

実際は人類に霊的上流階級など存在しない。人類は総じて霊的下層階級であり、本物の霊的上流階級であり先天的キリスト教徒のお毛もの(動物)との正しい関係性、お毛もの(動物)に献身し、お毛もの(動物)から許しを与えられることで人類は救済に与ることができる。

 

もし神が敗北したり殺されていても神は勝利そのものなので負けても勝利する。神は生命なので死んでも生き帰り、神は強いので半身不随になるまで叩きのめされ、どれだけ弱くなっても強くなる。

存在自体が巨大である猫は小さくなっても、巨大になっても巨大に帰するように、神は小さくなっても、巨大になっても巨大に帰するが、悪魔は小さくなっても、巨大になっても極小に帰する。

存在自体が善である猫は善になっても悪になっても善に帰するように、神は善になっても悪になっても善に帰するが、悪魔は善になろうが悪になろうが悪に帰する。

存在自体が真実である猫は真実になっても嘘をついても真実に帰するように、神は真実になっても嘘をついても真実帰するが、悪魔は真実になっても嘘をついても嘘帰する

存在自体が強者である猫が逃げても戦っても勇敢さ帰するように、神は逃げても戦っても勇敢さに帰するが、悪魔は逃げても戦っても臆病に帰する。

存在自体が富豪である猫は富豪になっても貧乏になっても富豪に帰するように、神は貧乏になっても富豪になっても富豪帰するが、悪魔は貧乏になっても富豪になっても貧乏に帰する。

存在自体が強力である猫は無力になっても強力になっても強力帰するように、神は無力になっても強力になっても強力帰するが、悪魔は無力になっても強力になっても無力帰する

存在自体が秩序である猫は混沌になっても秩序になっても秩序に帰するように、神は混沌になっても秩序になっても秩序に帰するが、悪魔は混沌になっても秩序になっても混沌に帰する

存在自体が美である猫は美になってもブサイクになっても美に帰するように、神は美になってもブサイクになっても美に帰するが、悪魔は美になってもブサイクになってもブサイクに帰する

存在自体がかわいい猫は暇つぶしにネズミや鳥を殺そうが、守ろうがとってもかわいいように、神は暇つぶしに人間を殺そうが、守ろうがとってもかわいいが、悪魔は何を殺そうが何を守ろうが全くかわいくない。

予定説、神成、聖人伝説、これらの概念を組み合わせたら当然スーパーマンのようなものが出来上がる。神は神なのだから存在しても存在しなくても存在するが、カスはカスなのだから存在しても存在しなくても存在しないのである。神を信じている者は信じようが信じまいが神を信じているが、神を信じていない者は信じようが信じまいが神を信じていない。愚かな者は神などといういるか、いないかわからないものを信じてさらに愚かになるが、賢い者は神などといういるか、いないかわからないものを信じてさらに賢くなる。