猫の室内飼い(監禁虐待)のよくある詭弁と反論例

 
「事故、怪我、病気、犯罪から守るために猫の自由や野性の習性は否定されるべきだ」

1.安全のためなら何をしてもいいのか

 

 

2.安全は手段であって目的ではない。

自由と生命(LIFE)のために安全があるのであり、安全のために自由と生命(LIFE)があるのではない。

健康のために生命(LIFE)があるのではなく、生命(LIFE)のために健康がある。

危険から守るため、安全のために生命・自由・幸福を奪ってはならない。死なないだけが生命ではない。死なないことなら死体でもできる。

交通事故から安全”だけ”を守るのではなく、交通事故から安全・自由・幸福・生命(LIFE)を守るのではなければ猫を大切にしていることにはならない。猫の習性と行動を守りながら車からも守るのが安全保障だ。

 

 

3.リスクが「ある」か、「ない」かの0か1の二項対立ではない。「リスクが多いか、少ないか」の量の問題で判断しなくてはならない。事故、病気、怪我、犯罪のリスクは誰にでもどこにでも「ある」。リスクが「ある」か、「ない」かで判断するなら何者も外出できなくなる。

リスクが「多い」か、「少ない」かの量の問題を「ある」か「ない」かの0か1かの二項対立にすり替えてはならない。リスクが「ある」だけで判断すると戦場と街路の強引に均質化が可能になる。

細菌や病原菌のない世界など存在しない。人間自身も菌を持っている。

 

3.交通事故、犯罪被害、病死などの例外的状況・特殊ケースを誇張し、一般化し、不可避の災厄であるかのように喧伝することで極端で過激な行動を取るように誘導している。

「猫は外に出ると死ぬ」という極端で誤った前提でリスクを過度に誇張している。「猫が外にいると死ぬ」なら猫はとっくに絶滅している。 

・監禁強要派は「生(監禁)か、死(自由)か」の誤った二項対立に誘導して、生と自由は交換条件であると思い込んでいる。

・監禁こそ猫を積極的かつ短期的に滅ぼす、猫にとって最悪のリスクである
外にいて死なない猫・外にいて死ぬ猫どちらが多いか答えられるか?何匹中何匹の猫の内の何割が轢死しているか?どの環境で何パーセントの確率で死ぬか?外に出る猫の死ぬ確率、何匹中何匹か、全体の何パーセントか、何割が実際に死んでいるのか、その可能性は何パーセントかの根拠が乏しい。全体の1割か2割程度ならコストを要するリスクとはなりえない。

些細なリスクを過大視して偏執的に恐れるなら動物も人間も一生地下の核シェルターに引きこもることになる。

 

 

6.猫を監禁しなくても猫を事故、怪我、病気、犯罪から守れる。長寿と自由どちらも損なうことなく目的達成できる。火事を防止するために必要なのは火に用心することであり、火を使わないこと、家を建てないことではない。

・具体的な改善によって猫にとってバランスの取れた長寿と安全と自由は実現可能である。

人間が自由で健康で、長寿で、安全なのは医療が発達し、うまいものを食い、犯罪取り締まりがあるからだ。動物病院で治療し、うまいものを食べさせ、虐待犯罪を厳罰化すればよい。

 

 

7.交通事故・犯罪などの人間が作り出した問題は人間が減らさなくてはならない。それは猫の責任でも仕事でもない。危険を作り出すのは犯罪者であり、被害者ではない。全ての負担と責任は危険を作り出す犯罪者が負わなければならない。その責任を追及できるのは人間だけである。

自然や動物を人工物と見なしたり、人工物を自然と見なすのではなく、人工物と自然をしっかり区別して、人工の悪に対しては人工の善で抵抗すべきである。

・猫を轢き殺さないようにドライバーの安全運転を啓発、車による動物の殺害を厳罰化の要請など人間の努力によって物事が前進することは歴史が証明している。日本国内では10年間で地方の中小都市一つが消滅する規模の4万人以上が車で死んでいる。自家用車に至ってはメリットよりデメリットの方が大きい。車を無条件に肯定、優先する理由はない。なお日本では交通事故発生から入院して24時間以上経過した死亡は、交通事故死亡者として計上していないため、実際の交通事故死亡者は統計以上に多い。
犯罪者が町から少なくなれば猫は家に閉じこもる必要はなくなる。虐待犯罪の捜査と厳罰を最優先課題にすれば犯罪者は少なくなる。
・怪我や病気になったら病院に連れて行けばいい。動物病院はそのためにある。

監禁強要派は猫にとって自由と野生の習性は長寿と安全に対立するものであると見なし、いたるところで過度に誇張された屋外のリスクを積極的に喧伝している。
残念ながらこれは世界観と価値観の完全な食い違いであり議論で解決することは不可能である。
奴隷種族は自由という概念を敵視し、自由に死のラベルを張り、自由(危険)か安全(不自由)かの二項対立に誘導している。
「自由と野性の習性は死と不健康と悲しみの源である。」
「自由と野生の習性は生と健康と喜びの源である。」
あなたはどちらに共感できるか、どちらが生命にとって望ましいと思うか?

 

8.怪我のデメリットよりも、自由と幸福のメリットは上回っている。自由と幸福は普遍的で素晴らしく交換不可能で最も価値が高いのでつねに最優先し尊重しなければならない。

 

9.ネズミは殺鼠剤に耐性を持って進化している。猫も車に警戒するように進化している。

良い苦痛と悪い苦痛があり、良い死に方と悪い死に方がある。

リスク、困難、危険、自体悪いわけではない。一々対立にすり替える必要はない。

 

10.物理虐待への対策が監禁という環境型虐待であってはならない。

 

 
「監禁はケガをしない、病気にならない、殺されない、事故に遭わない。だから安全だ」

 裏の意味「死体同然であることはとても気持ちいい。死体を作り出すのはもっと気持ちいい」

 

1.ケガをしない、病気にならない、殺されない、事故に遭わないことは死体でもできる。そしてお前らは猫を死体同然の存在にしようとしている。詳しくは「死人テスト」「具体性テスト」で検索。

「死ねばケガをしない、病気にならない、殺されない、事故に遭わない。だから安全だ」と言っているの同じである。これは生命のための安全ではなく、死のための安全である。

 

2.「安全」のためなら何をしてもよいのか?

「安全であるなら監禁の苦痛を与えてよい」という価値観に従うなら安全のために四肢切断、冷凍保存すら正当化される。

 

3.猫にとって屋外は戦場ではない。戦場にしているのはお前らのような猫誘拐し監禁する勢力だ。

 

 

「動物の死、怪我、事故を増やさないために監禁すべき」

 

 1.監禁は死、怪我、事故を増やさないために、外から動物そのものを減らしてゼロにしようとしている。

 

2.監禁しなくても死、怪我、事故を抑制できる。

車の罰則規定を追加し、犯罪者を処罰し、治療すれば自由も安全も守ることができる。

 

 

 「不幸な猫を増やさないため」


1.手術で断種され、生涯監禁される猫はもっと不幸だ。

2.お前は不幸な命というより命が不幸だと信じている。生きること、生まれてくることが不幸だという病的なニヒリズムをお前が信じているだけだ。

 

 

 

 「外で猫が増えると交通事故が多発して人間が危険だ」

 

1.例えば?なお、例外は例外でしかなく一般化する必要がない。

 

2.交通事故を作り出すのは歩行者ではなく車。

車は歩行者をはねるが。歩行者は車をはねたりしない。つねに殺すのは車である。

交通事故を作り出す運転者が交通事故を作り出さないように義務と責任を努力を負うのは当然である。

車道は車のためにあるからといって歩行者を殺害していい理由にはならない。

歩行者を守る目的のために車道と歩道が分岐という歴史的事実を踏まえれば、歩行者を守ろうとしない車道はその目的から逸脱している

 

 

 

  「放し飼いの飼い主は『動物の安全を守る』、『動物の命を預かる』という義務を果たしていない」

 

1.室内飼(監禁虐待)する者は猫から自由と幸福と生命(LIFE)の権利を抹殺し、猫の自由を守る義務、動物の幸福を守る義務、動物の生命に支え寄り添う義務を否定している。

『動物の安全を脅かす人間』(犯罪者)に立ち向かう義務を否定している。

「動物の安全を脅かす」、「動物の命を奪う」のは猫でも飼い主でもなく犯罪者だ。

・動物の命を守るには『動物の命を奪う人間』を排除すればいい。動物を犯罪から守りたければ犯罪者と戦うしかない。

自由と生命のために治安があるのであり、治安のために自由と生命があるのではない。

・社会問題の原因と責任を外(社会)に向けるか内(自分)に向けるか違いでしかない。前者は社会の改善を促すが、後者は自己責任論や被害者避難を支持することになる。

 

2.飼い主に向かって猫の監禁を命令し、強要、誹謗中傷する権利はお前にない。

本来自由な猫の権利を否定する権利はお前にない。もし権利があるならそれは人間がモノに対する権利の行使であって、その世界観と価値観こそが動物虐待の源泉だ。

 

3.安全と長寿は手段であり、目的ではない。

お前は手段と目的をはき違えている。安全とリスクマネージメントは、自由と生命(LIFE)実現するための手段であり、目的ではない。

猫の自由と幸福を剥奪する監禁による安全対策は、目的達成を阻む最悪の危害である。
安全であること「だけ」、長生きすること「だけ」を追及するなら最後には冷凍睡眠やDNAサンプルだけを冷凍保存するだろう。

極端に言うとこいつらは生命を心拍数の数値のみで定義している。心拍数のある脳死状態の人間は死亡と判断される。
喧嘩による負傷、交尾による猫エイズ感染も含めた生命(LIFE)にとって不可欠な構成要素であり、
動物の生命観を現代の人間基準で相対化したり歪曲して抑圧する人間こそが動物の生命と安全を脅かす消極的殺害者、消極的虐待者である。

4.野生や野良の状態と比較して健康で幸福なら動物にとって、それは充分幸せで健康である。

動物に関して人工状態と人工状態を比較してはならない。

野生状態より比較的安全で比較的幸福なら動物にとっての安全と幸福は達成されている。

5.監禁は「安全対策」を武器にして動物の「自由、主体性、生命(LIFE)」を抹殺する虐待犯罪である。

監禁で免疫や体力を奪うのは、安全を追求して手足を切断する行為と同じ。

監禁する人間は猫の自由と主体性を尊重し、健康と生活を支え、猫の本来あるべき姿を守る義務と責任を果たしていない。
家の火事を予防するために家を取り壊すのと同じ行為

6.動物の命と安全を守るのに監禁する必要がない。監禁しなくても動物の安全・健康・幸福を十分に守ることができる。

 7.動物の安全、生命、自由、幸福を最大限に配慮した飼育形態が放し飼いである.

 

8.人間の役割と責任は猫を世話しつつも自然に育てて、支えることであって支配することではない

 

9.猫を監禁するのは、猫を「モノ」としてて扱う虐待側の価値観を追認し共有している。お前らは違法の虐待から合法的虐待に誘導しているだけだ。

 

10.本当の猫好きは猫を減らすのではなく、猫が暮らす環境を増やすための努力と義務を果たさなくてはならない。

前者が行き着くのは猫の滅亡、後者は人間と動物の共存を目指している。

「人間のため」ばかりに執着して、「人間と動物のため」に働こうともせず、共存の可能性を完全に否定している。

 

 

 

 

「交通事故が起こるような環境は自然ではない。だから人間が猫を監禁して是正すべきだ」

 

 

一部が不自然なら全ての自然を剥奪していい理由にはならない。

猫を監禁するとさらに不自然な環境になる。それは人工化に対する抵抗ではない。外から車を減らすのではなく、猫を減らすなら、全ての自然を抹殺した人工環境の加速でしかない。

昔から車社会だが多くの猫は生き残っている。外にいることで猫は車に対する危機回避能力を育む。

人間が作り出した不利益を人間が補償するのではなく、人間が作り出した不利益を人間が最大化するのは最悪の悪夢だ。

 

 

 

「猫を外に出す飼い主に猫を飼う資格は無い」

 

1.猫の自由と猫を尊重する飼い主を攻撃する不道徳で性悪なクズに生きる資格はない。

 

2.人間の役割と責任は猫の世話をしつつも自然に育てて、支えることであって支配することではない

 

3.猫は有史以前から自由に外出している。元々あったものを否定し、剥奪し、抑圧するのは創造ではなく破壊であり、進歩ではなく、退行である。

 

 

 

 

「猫を自由にする人間は猫を大切にしていない」

 

大切にするのは支配することではない。大切にすることと支配することの区別をつけろ。

大切にすることは相手を助けながらも自然に育て、寄り添い、尊重することであり、手術と監禁は監禁虐待であり支配だ。 

 

 

 

「フンで道が汚れる」

  

1.公道は美術品ではないので、過剰な衛生を追求する必要がない。

 

2.フンが多いか、少ないかの量の問題を、フンがあるか、ないかの0か1かの二項対立にすり替えている。

具体的に何が困るのか?あるのが困るのか?多いのが困るのか?

日本では、ある日突然、公園や道が「何かをしてはいけない場所」「何かを禁止するための場所」「何かを攻撃するための場所」に変わる

 

3.通常猫は、糞をした後、土の中に埋めて、  地球環境へのリサイクルに協力する。

地面で暮らしているか、地面を舐めまわす変態でもない限り、猫のフンに素手で触れる機会などない。

 

 

 

 

 

 「家の砂利にフンをするから猫を監禁しろ」

 

そこは以前猫のトイレだったはずだ。猫が暮らしても問題が起こらなかった以前の環境、周辺を破壊しているからトラブルが生まれる。

猫は、砂利を敷き詰めた狭小住宅の乱立という極端に自然に敵対的な都市設計が作り出した先制攻撃の被害者だ。

土を減らし、砂利を敷き詰めたからフンが問題になるようになった。

猫のフンなどの当然あるべき昔からの現象を考慮して住宅設計しない住宅会社に責任がある。損害賠償は全て住宅会社に請求するように。

いずれにせよ砂利に糞があることで具体的損害は発生しない。自分の気分のための猫のかけがえのない生命・自由・幸福を剥奪してはならない。

 

 

 

「猫の管理に責任を持て」

  

1.猫の生命と自由と幸福の尊重し、支える責任を持て

 自由の剥奪は生命・幸福・自由を守るための責任を果たしていない。

 

2.お前はモノに対する責任を押し付け、生命と自由に対する責任を攻撃している。

猫は倉庫の在庫ではないので管理対象にしてはいけない。管理とはモノに対して用いる形容である。アパートの管理人は住民の生活を管理しない。

 

3.人間の役割と責任は、猫を世話しつつも自然に育てて、支えることであって支配することではない

 

4.誰に対する責任か?どんな責任なのか?

(主語が欠落した精神異常者の鳴き声には具体的に反問すること)

 

5.お前が押し付けようとているのは人間の気分やモノを守るための責任であり、猫の生命、自由、幸福を守るための責任ではない。

 

 

 

 

「 猫の営みは猫嫌いにとって全て迷惑」

 

1.「迷惑をかけない」ためなら何をしてもいいのか

 

2.お前の気分や利益のために猫の自由と生命を抹殺してはならない

 

3.「騒音が多いか、少ないか」の量の問題ではなく、「騒音があるか、ないか」の0か1の二項対立に執着している。「あるか、ないか」に執着し「ある」をひたすら排撃するなら受忍限度の水準は際限なく引き下がり、無の世界を志向するようになる。

猫はいつも鳴き声を上げているわけではない。たまにしか現れない猫を敵視し、攻撃し、永遠に消し去ろうとする者の精神構造に問題がある。

 

4.他人を自分の言いなりにしたり、攻撃するために、迷惑という曖昧な概念を武器として悪用する者ほど非常識で、醜悪で、幼稚で、不道徳なものはない。

 

 

 

 

「危険より安全の方が幸福だ」

 

安全より自由の方が幸福だ

 

 「不自由の方が自由より幸福である」という奴隷階級の種族の世界観と「自由のほうが不自由より幸福である」というまともな人間の世界観の対立である。

 

 

 

 

「ただ完全室内飼い(監禁虐待)をするだけで全てのマイナス面を排除出来るのに、放し飼いという古い因習に縛られる人間は猫に不利益を与えている」

 

1.監禁虐待という新型の虐待犯罪は、元々あった猫と人間の伝統的で自然な関わりを破壊し、猫からわずかなマイナス面だけではなく普遍的なプラス面すら全て排除し、猫から全てを奪っている。 

 

2.昔からあった自由への破壊行為は進歩ではなく、後退である。

 

 
「猫を監禁すれば怪我、感染症、事故などの危険から”守れる”」
 
1.守るためなら何をしてもいいのか

2.動物なので野生状態と比較して安全なら充分に安全である。

動物は長寿の必要があるのか?長寿になることを求めているのか?

 

3.自由と幸福のために安全があるのであり、安全のために自由と幸福があるのではない。

監禁は安全と長寿のために猫が本来持っている自由と幸福と本能の可能性を抹殺する


4.監禁は怪我、感染症、事故より自由と幸福を抹殺することで最悪の苦痛と危険を猫に与える。

危害を別の危害に置き換えているだけだ。

監禁こそ猫の生命、幸福、自由を抹殺する深刻なリスクである。怪我、病気、事故というわずかな危害を、監禁という最悪の危害で打ち消そうとしている。

奴らは猫を「死なせないため」に可能な限り殺そうとしている。

 

屋内でも怪我、感染症、事故などの危険はあるので監禁は危険から守れない。生きていれば風邪で重症になることもあるし、割れた食器で大怪我をすることもあるし、車が家に突っ込んでくる危険はつねにある。

相手の用いる狡猾な表現につねに注意し、対義語を検索して概念を相対化しよう。
「危険から守れる」「危険から防げる」という表現は、危険が「多いか、少ないか」、危険が「減るか、増えるか」という量の問題を「あるか、ないか」 「0か、1か」の二項対立にすり替えている。

 

 

 

 「猫を監禁すれば怪我、感染症、事故などの危険を”減らせる”」

 

 1.リスクとは比較の問題。野生、野良の状態と比較して怪我、感染症、事故が少ないなら動物にとって充分健康で幸福であり、動物の安全目標は達成されている。

 

2.監禁しなくても怪我、感染症、事故などの危険を減らすことができる。

・免疫、ワクチンや回復力、注意力を育むと怪我、感染症、事故の危険を減らすことができる。

・動物の医療技術が発達している現代では怪我や病気は深刻な危険とはなりえない。

 

奴らは猫が自分の身を守る意思と能力がある事実を封殺している。
例外的な事例を一般化して動物を「車にひかれるだけの機械」「病気になるだけの機械」「怪我をするだけの機械」のように再定義しようとしている。

 

 

 

「室内飼い(監禁虐待)と比較して放し飼い(自由共存)の方が怪我、感染症、事故などのリスクは高くなる」

 

1.放し飼いの猫は野生、野良の状態と比較して怪我、感染症、死のリスクは低くなる。

自然と比較して健康で長寿なら動物にとって充分健康で幸福である。

生命はリスクを乗り越えることでより多くの利益を得ることができる。
進化が促進され、知能が発達した猫が増え、死亡率は下がっていく。

 

リスクは比較の問題

何と比較するか明確にする。つねに自然と人工を比較し、人工と人工を比較してはならない。

・放し飼い(自由共存)と比較して室内飼い(監禁虐待)の方が無為、ストレス、精神障害、苦痛などのリスクが高くなり不幸である。

・自然状態と比較して室内飼い(監禁虐待)は動物が本来持っていた自由意思と能力を抹殺するので緩慢な病気化、、緩慢な身体損壊(筋肉、内臓、免疫の退化)、ストレス、苦痛などのリスクが高くなり不幸である。

 

室内飼い(監禁虐待)は人工環境で拘束、抑圧することで動物に緩慢な病気化、、緩慢な身体損壊(筋肉、内臓、免疫の退化)を施す虐待である。

薬物で動物の内臓機能を低下させたり筋肉を収縮させたり、免疫機能を低下させるのは虐待である。

それと同じように室内飼い(監禁虐待)は監禁という手段を用いて緩慢に時間をかけて動物の内臓機能を低下させたり筋肉を収縮させたり、免疫機能を低下させる虐待である。

薬物投与と監禁はどちらも人工の手段を持ちいて動物の身体機能を損壊している。違いは急速か緩慢かの違いだけで虐待であることに変わりはない。

 

 

2.優先順位の設定を明確にする。手段と目的のはき違えを指摘する。

最優先すべきなのは「幸福のための安全」であるが、こいつらは「安全のための幸福」、「安全のための安全」に執着している。

安全は自由のためにあり、自由は幸福に到達できる唯一の手段である。安全は自由と幸福より優先してはならない。

奴隷種族の価値観は自由を死に不自由を生にすり替える
自由(死)か不自由(生)かの二択を提示しどちらかの犠牲を要求する極端な発想や環境は生命の幸福の実現をできない。

 

 

 

「悪影響が否定できません」

 

影響がないことも否定できません。好影響も否定できません。 

 

 

「危険性を高めます」

 

わずかに高めるか、多く高めるかがが題であり「高まる」だけでは理由にならない。

多いか、少ないかの量の問題を「0か,1か」にすり替えている。

リスクを「多く」増やすか リスクを「わずかに」増やすかが問題だ。

0.1%のリスク上昇はリスクとして判断すべきではない。

リスクを「高める」だけを判断基準にすると呼吸も水分補給も病気の危険性が0.1%「高める」のでリスクになる。

1%のリスク上昇のために呼吸をやめるのは正気ではない

 

 

 

  「子猫の頃から監禁していれば監禁生活に順応する」

 

監禁するための洗脳、抑圧、操作、自分が与える苦痛に無感覚になるように訓練することも、猫本来の姿を歪め、捻じ曲げる虐待である。

 

 

 「猫を自分の都合で外にいさせておくのは身勝手だ。」

 

1.猫の都合を最優先せずに、自分の都合で監禁する人間こそ身勝手で利己的で強欲な怪物だ。

 

2.猫の自由を尊重する飼い主に向かって身勝手に命令あるいは誹謗中傷する権利はお前にない。

 

3.部屋に監禁されることを望む猫はいないし、猫は監禁されるために生まれてきたのではない。

猫の都合を抑圧し、人間の都合だけ強調する者ほど身勝手なものはない。 

 

4.有史以前から続く猫の放し飼いを必死で否定し、人間都合の監禁を呼びかけて、飼い主と猫を攻撃し、積極的に分断と対立を生み出すお前こそ身勝手。

 

 

「犬を監禁しているのだから、猫も監禁すべきである」

 

犬を監禁しているからといって、猫を監禁していいことにはならない。

犬は監禁してしまっているので、猫を監禁するのはやめよう。もしくは犬も自由にしようと考えるのが建設的思考である。

あれを監禁しているのだから、あれも、これも監禁していいという思考回路は際限のない支配と抑圧を作り出す。

監禁や支配を文明の進歩と信じ、最大化しようとする人工至上主義のイデオロギーは地球に地獄を作り出す。

 

 

「放し飼いは猫を大切にしていない」

 

 大切にすることと、支配することの区別をつけろ。

「大切にする」こととは猫に寄り添い、支え、尊重し、手をかけつつも、自然に育てる ことであり、監禁・断種は猫が本来持っているものを奪い、捻じ曲げて、滅ぼす最悪の支配である。

 

 

「子猫が他の動物に捕食されるので、猫は監禁・断種すべきだ」

 

 飼育されていない動物VS飼育されていない動物であるならそれは自然VS自然であるため自然現象だ。

淘汰や弱肉強食によって猫は猫として進化してきた。自然原理の否定は猫そのものの否定だ。

人間VS動物であるならそれは人間が作り出す犯罪である。

サバンナでライオンがシマウマを狩るのドキュメンタリーと人間がシマウマを刈るドキュメンタリーでは印象は大きく異なる。

 

 

「猫は室内でも飼い主が遊んでやれば自由・快適だ」

 

1.「シャバの自由・快適」と「監獄の中の自由・快適」を比較すれば「監獄の中の自由・快適」は完全な不自由・不快だ。

 監獄の中の自由を自由とは言わない。

 

2.猫は生まれながらに自由に生まれたきた。飼い主によって行動を制限、コントールされた環境に監禁することは全く自由ではない。飼い主の全面的な裁量に依存する環境には個人差があり、虐待、ネグレクトのリスクが増す。

 

 

「子猫の頃から監禁していれば、順応する」


 自然な発育を阻害し、監禁に順応するように洗脳し条件づけるのも虐待だ。

 

 

「短足の猫のマンチカンなど屋外行動に適さない猫種もいる」


 1.人間が動物に鑑賞用の玩具であることをおしつけ、品種改造で本来の性質を歪め人間に依存せざる得ない脆弱な身体に変質させる虐待行為の結果だ。

人間が奪った本能は人間が放し飼いで訓練することで取り戻さなくてはならない。

 

2.屋外行動をしていれば屋外行動に適するようになる。それが生命だ。

混血によって数世代後には普通の猫になっている。

 

 

「投獄された猫がストレスを感じるのは監禁虐待だからではなく、生殖や狩猟など本能を満たすことができず、エネルギーを持て余していることが原因。すなわち鎮静剤や抗うつ剤を投与したり人間が遊んでストレスを減らせば監禁に問題ない」

(日清ペットフード公式サイトが実際に掲載した詭弁 http://www.nisshin-pet.co.jp/club-jpstyle/daily-care/c-lesson0201.html )

(花王公式サイトの「猫に関するよくある質問」のページでACプラザ苅谷動物病院 葛西橋通り病院院長の内田 恵子と助手の 大石 節子が実際に掲載した詭弁htttp://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category10/002.html)

 

「狩猟・縄張り・気温・習性・遊びを室内調整やおもちゃなどで人工で再現すれば幸福である」

 

1.ストレスの軽減だけが幸福と自由ではない。幸福と自由のためにストレスを軽減するのではなく、不幸と監禁のためにストレスを軽減させている。

ストレス軽減は幸福と自由の実現のための手段であって目的ではない。

これは薬物依存、ゲーム依存、ポルノ依存を追認する危険な思考である。奴らは「シャブ漬けにすれば監禁されてもハッピー」になれると信じている。

 

2.死体になればストレスが少ない、ストレスがなくなるが、こいつらは実際に猫を死体同然に扱っている。

 

3.こいつらは不自然で偽物の狩猟や生殖を与えれば本物の狩猟や生殖の経験をはく奪していいと信じている。

 

4.人間が監禁してストレスを与える状況を作り出し、人工の環境に順応させるために猫の身体機能や経験を剥奪するのは虐待の追求である。

 

5.自然なストレスと不自然なストレス、良いストレスと悪いストレスがある。自然な自由と不自然な自由、強い自由と弱い自由がある。

猫が本来持っていた普遍的で自然な自由を奪って、限定・制限した不自然な自由を与えても、決して損害を補うことはできない。

 

 

 

 

  「住宅密集地では近隣の方への配慮が大切であることも事実であり、室内飼育(監禁虐待)は、大切な家族であるペットと人の健康を守ることへ繋がる」

 

1.猫好きへの配慮が大切であることも事実であり、監禁虐待(室内飼育)は、大切な家族であるペットと人の生命・幸福・自由・健康を完全に剥奪する。

 

2.同調圧力・健康は生命・幸福・自由を守るための手段であり、目的ではない。同調圧力・健康のために生命・幸福・自由を犠牲にしてはならない。

 

 

「野良猫に餌をやるのは身勝手な人間」

 

1.一般人に偽装して憎悪をまき散らし、
猫の自由と飢えた猫に給餌する人達の善意を貪欲に攻撃しているお前こそ、社会性皆無の幼稚で異常な醜い怪物だ。

 

2.飢えた猫に給餌する人間に対して身勝手に、命令あるいは誹謗中傷する権利はお前にない。

 

 

 「愛情を持って猫を室内飼い(監禁虐待)しているので私は悪くない」


1.愛情があるなら何をしても許されるのか

2.猫の自由と生命より、お前の感傷を優先してはならない。
お前は「自分の気持ちを尊重しろ、猫の自由と生命は無視していい」と主張している。
これはストーカー殺人事件の犯人と類似した精神構造だ。

 

 

「室内飼い(監禁虐待)は放し飼いより長生きだ」

 

1.放し飼いは野良や野生より長生きだ。

野生、野良の状態と比較して健康で長寿なら動物にとって充分健康で幸福である。

・基準にすべきは野生状態であり、野生状態と比較して長生きなら動物は十分長寿であり幸福である。

・人工と人工を比較した結論より、自然と人工を比較した結論の方が真実に近い。人工は人間が恣意的に作り出すものであり、自然は人間が恣意的に改変不可能だからだ。

あらゆる前例や比較を無視して猫の長寿記録更新だけを追求している。いつまで長生きさせれば満足するのか?

・人工の概念が効果を発揮するのは人間限定であり、人工の概念を自然に押し付けるのは妄想である。

 

「室内飼い(監禁虐待)は放し飼いより長生きだ」という主張は人工と人工を比較した人間基準の相対的な評価だ。
対して「放し飼いは野生状態より長生きだ」という主張は人工と自然を比較した自然基準の絶対的評価である。

リスクは比較の問題。前例を人間が作り出し、状況も人間が作り出す人工と人工を比較しても、どこまで行っても作為的な結論しか出ない。

人工と人工を比較すると「冷凍睡眠は室内飼い(監禁虐待)より長生きだ」という恣意的な既成事実の前例の踏襲が加速し、人間基準の奈落に転落する。

 

2.人間のための長寿であり、猫のためではない。人間ですら13歳過ぎたら生命の空虚さに悩み自殺したり、子どもを作って現実逃避したりするので、暇つぶしの手段がない猫はなおさらだ。

キャットフードや医療の改良によって昔と比較して野良猫ですら平均寿命が上がっている。どこまで長寿化すれば人間は満足するのか?猫はそこまで長寿を望んでいるのか?

 

 

3.猫に関する14のよくある "事実 "は実は誤りである

https://web.archive.org/web/20200808034033/https://www.readersdigest.ca/home-garden/pets/common-cat-myths/(英文記事)

室内飼いの猫は長生き

「これは、室内飼いの猫と野良猫を比較した場合のみ当てはまります」とバールは言う。 

「そうでなければ、飼われていて屋外に出られる猫は、室内猫と同じように長生きする」

 

 

 

「監禁されても猫はストレスを感じない。なぜならYESかNOを言葉で意思表示できないからだ」

 

猫の行動からサインとメッセージを読み取る理解力と共感能力のない者は動物と関わる資格はない。

言葉が通じないことは相手が意思表示をしていない証明にはならない。動物は言葉でで意思表示できなくても行動で意思表示をしている。言葉が通じない相手の意思を確認できる唯一の方法は行動と叫び声である。

常時窓やドアを開け放して猫が出ていくなら監禁にはNO、出ていかないなら監禁にYES。

そして自ら進んで一生部屋に引きこもる猫などいない。

ドアや窓を閉ざし、唯一の意思表示である行動の選択肢の剥奪し、外に出ないように洗脳、条件づけるのも虐待だ。

 

 

 
「フンや鳴き声で迷惑だから猫を一生監禁しろ」

1.お前のわがままだろ
 
2.猫の生命より土やアスファルト、誰かの気分を優先してはならない。

猫は人間を監禁していないが、人間は猫を監禁しろと言う。猫のフン、喧嘩、声はお前の一生を奪ったりしない。
お前の要求は猫と猫の飼い主に迷惑をかけている。お前には他人を抑圧する権利はないし、お前の権利のみを尊重しなければならない理由がない。
・誰に対して、いかなる具体的損害が生じているか?猫のフン、喧嘩、声は猫の自由を望む飼い主の権利と猫を排除しなければならないほどの具体的で深刻な損害ではない。

 

3.猫がうるさいからと言って一生監禁していい理由にはならない。

猫の鳴き声は、猫に対する排除行為をいかなる文脈、あらゆる形でも正当化しない。

・猫は24時間フンをして、喧嘩をして、声を出していない。猫のフン、喧嘩、声はお前の一生を奪ったりしない。

・猫のフン、喧嘩、声は猫の生命を剥奪しなければならないほどの具体的で深刻な損害ではない。

 

4.お前に環境型虐待を命令し、強要する権利はない。

 

5.鳴き声はいつもするわけではない。たまにしか現れない猫の存在を完全に否定しようとするお前の精神状態に問題がある。

 

 
「猫の自由は他人に不快。マナー違反だ」

1.お前のわがままだろ
 
2.誰かの気分、曖昧な価値観や相対的な概念を守るためのマナー・ルールを、誰かの生命、自由、幸福、普遍的な価値観や絶対的な概念を守るためのマナーより優先してはいけない。

猫の自由は最高のマナーであり、ルールである。

 

 

「常識でしょ」「前提として~」

1.こんなことを言ってる(やってる)のはお前だけだが?
 
2.非常識なのはお前だ。他人に命令する権利はお前にはない。お前は国民の代表ではない。

 

3.他人を自分の言いなりにしたり、攻撃するために、常識を武器として悪用する者ほど非常識で、醜悪で、幼稚で、不道徳なものはない。

 

 

 

 

「放し飼いはマナーを守っていない。責任を果たしていない」

 

1.他人を自分の言いなりにしたり、猫から生命・幸福・自由を抹殺するために、マナーを武器として悪用する者ほど無礼で、醜悪で、幼稚で、不道徳なものはない。

 

2.かけがえのない生命・自由・幸福より、気分や同調圧力という軽薄な概念を優先してはならない。

 

 

3.お前が押し付けようとしているのはモノを管理する責任であって、動物の生命・幸福・自由を支える責任ではない。

・何のための責任か、何のための義務か明確にする。各責任には優先順位が存在する。協調のための責任は、かけがえのない生命を守るための責任より優越しない。

 

4.わがままを言ってはいけない。常識・モラル・マナーは猫嫌いのためだけにあるのではない。常識・モラル・マナーは猫嫌いの言い分を無際限に許容するためにあるのでもない。

 

 

 

「それは理想に過ぎない。現実として~」


現実主義者であるあなたはどのような実践と経験、データをお持ちですか?

 

 

「車に傷がついた。猫を監禁しろ」


1.自分の物や気分が損害を受けたら、相手の生命と幸福を剥奪していいと思っているのか

 

2.自分の気分やモノを、動物の生命、自由、幸福よりも優先してはならない。モノや気分は猫の自由と幸福を永遠に剥奪していい理由にはならない。

軽薄なものとかけがえのないものを均質化したり、かけがえのないものより軽薄なものを優先してはならない。

 

 

「猫が花壇や畑を荒らす。猫を監禁しろ」


1.猫は肉食動物なので植物を荒らさない。

 

2.動物の生命、自由、幸福よりも、自分の気分やモノを優先してはならない。モノや気分は猫の自由と幸福を永遠に剥奪していい理由にはならない。

軽薄なものとかけがえのないものを均質化したり、かけがえのないものより軽薄なものを優先してはならない。

 

 

3.花にバリアーを敷けば、猫の習性も、植物の習性も抑圧することなく植物を守ることができる。

 

 

「保健所に猫に対するクレームがたくさん届いている」

 

1.猫をガスで殺害する組織の窓口には、猫の殺害を要求するクズの意見が集まってくるのは当然だ。悪の窓口には悪の意見が集まる。

 

2.動物殺戮組織「保健所」に対するクレームも昔からたくさん届いているはずだ。

 

3.保健所は我々(市民)の名前を、殺戮のために使うな。

 

4.衛生面を誇張し、例外を一般化して猫を強力な病原菌の発生源、もしくは病原菌そのものと見なし、殺戮する組織が信じる価値観を共有してはいけない。保健所が定義する「保健」について思考停止に陥ってはいけない。

 

 

 「猫が増えると保健所で殺される猫が増える」

 

1.因果関係が逆。保健所が猫を殺害し続けるから、保健所が殺害する猫が増え続ける。

猫を殺しているのは猫でも、飼い主でもなく保健所だ。殺される側の問題ではなく、殺す側の問題だ。

 

猫を殺す保健所を減らせばいいだろうが。税金搾取されるだけのヘタレが。

飼育動物を放棄する人間と保健所は共犯であり、保健所は被害者ではなく虐待犯罪の加害者だ。

 

「殺される猫」を減らすために猫を減らすのは猫のためにはならない。猫のためなら殺す人間を減らさなくてはならない。

 

 

2.大量殺戮する保健所の正当性に対する完全な思考停止が前提になっている。

 

3.現在では「行政組織は野良猫を大量殺戮してはならない」という法律はないが、「猫を大量殺戮しなければならない」という法律もない。

保健所と称する組織が悪い選択肢を選び、悪い方向性を意欲的に突き進み、思考停止した市民の支持がこの殺戮組織に活力を与えている。

 

4.動物を殺害する保健所がある限り、動物は減り続ける。殺さなければいけないほど人間に害を与える猫などいない。猫が危機的ウィルスを蔓延させたという前例もないのに猫を「保健」の対象にしている組織の必要性・科学的合理性に疑問を持たなくてはならない。

市民は、猫をゴミとして分類するような組織や人物が示す「ガイドライン」や「道徳的提案」に従うべきではない。

 

猫を年間21万、すでに監禁が常態化してしまった犬ですら10万も殺戮している組織が道徳的文脈から生まれた動物愛護を指導する立場にない。トーンを変えて動物を滅ぼすために監禁という消極的殺処分をアナウンスしているだけだ。

 

5.自由な動物を減らさなくても保健所の殺害を減らすことができる。

保健所を減らすことで実現可能である。

 

6.猫は特定地域で適正個体数を維持するように遠方へ旅立つ本能がある。そこで誰かに給餌されたり、飼い猫になったりすることで秩序を保つようになっている。自然の本能に合理性が組み込まれているので人工の合理性が過剰に介入する必要はない。給餌や飼育という人工の合理性と猫が持つ自然の合理性が調和することですでに秩序が保たれている。そこに監禁や断種という過剰な人工の合理性を付け加え、人工の合理性の優越だけを加速させることで現在ある秩序を破壊しようとしている。

自然や本能は秩序を維持するための合理性を持たないと信じるのは非科学的だ。多くの場合、過剰な人工の合理性の介入は自然の合理性を破壊し、適切な人工の合理性すら侵略し取り返しのつかない混乱を引き起こし、状況をさらに悪化させている。私が共に暮らしていた猫達の多くは帰ってこなくなったが、個人の感情や人工の合理性よりも、自然の合理性を尊重すべきであると信じているので現実を受け入れている。

 

 

 

 

 「猫を監禁すれば猫が減るので殺される猫をなくせる」

裏の意味:犯罪を作り出すのは被害者。被害者だけ責任と負担を負わせて加害者は放置でよい。

 

1.人間は神ではないので犯罪をなくすことはできない。減らすことができる。

0か1かではない。多いか少ないか。

猫を監禁しなくても犯罪を減らすことができる。犯罪の厳罰化と取り締まりを徹底しない限り、あらゆる犯罪は減らすことができない。

 

2.悪い人間に隷属するより、悪い人間に反撃する方が自然だ
良い人間が悪い人間を倒し、淘汰することで人間は進化してきた。

人間が動物を殺すより、人間が人間を殺す方が自然である。

 

3.人間がめったに誰かに殺されないのは、犯罪を処罰する法が機能しているからである。

犯罪者を処罰すれば動物を殺害する犯罪者を減らせる

 

4.メリット・デメリットを比較し、デメリットよりメリットが上回るならメリットを最優先しなければならない。あらゆる生物にとって「殺されるデメリット」よりも「生きるメリット」の方が上回る。

 

5.殺戮を作り出しているのは人間だ。殺戮されている猫にこれ以上いかなる形であれ負担・不利益を与えてはならない。

安全と快適を捨て去った社会は犯罪者が望む社会だ。犯罪者のせいで社会から快適さが損なわれのは二次被害だ。

 

 

「猫を外に出しているなら車に轢かれたり虐待されても文句はいえない。外にいる猫も悪い。外に出している飼い主も悪い」

「加害者が悪いのは大大大前提だ。だが被害者も悪い」

 

1.外にいる猫は殺していいと思ってるのかお前は。

あるいは動物虐待犯罪は被害者でもあるので情状酌量で無罪が妥当だと言いたいのだろうか?

自分のカネや気分を優先して猫を殺害する人間に同情の余地などない。

 

2.外にいる猫は死んで当然だと思ってるのかお前は。

殺害は人間の仕業だ。当然でもなければ自然でもない。

「絶対的に回復不可能な損害を受けた被害者」と「絶対的に回復不可能な損害を与えた加害者」を強引に均質化すると被害者はさらにダメージを負う。

猫は人間を殺していないが、人間は猫を殺した。

「人間を殺していない猫」と「猫を殺した人間」を強引に均質化して「どちらも悪い」と断定する者は、平等を装って立場の弱い側を攻撃している。

「痛みを感じない車などのモノを傷をつけた猫」と「痛みを感じ感情を持つ猫を殺傷した人間」を「どちらも悪い」と均質化してはならない。

「猫の自由と幸福を尊重する飼い主」と「自分の感情を優先する犯罪者」「どちらも悪い」と均質化することはできない。

 

3.殺す側と殺される側が同じ「悪」だと思ってるのかお前は

殺す側と殺される側。犯す側と犯される側。被害者の損害を無視して両方を強引に均質化。

これは「ミニスカートをはいてる女性はレイプされて当然だ」という被害者非難と同じである。

被害者非難は犯罪の支持であり、犯罪を助長している。

「ミニスカートをはいてる女性をレイプしてもいい」「性犯罪者は女に誘惑された被害者であり、女は加害者だ。レイプは正当防衛だ」という犯罪への意欲の裏返しである。

「ミニスカートをはいてる女性は男をレイプしていない」が、「男はミニスカートをはいてる女性をレイプした」。これがなぜ同じ悪などと均質化できるのか?

「ミニスカートをはいてる女性はレイプされて当然だ」などと言う男は潜在的な性犯罪者、性犯罪者予備軍であり男性器を切り落とされ口に突っ込まれ唇を縫い付けられても文句は言えない。

  ・相対的な悪と絶対的な悪の区別の否定、強引な均質化 「両方罰するか」「 両方無罪か」の信仰

「万引きとレイプの罪の重さは同じだ」考えるのは相対的な悪と絶対的な悪の区別がつかない愚か者であり、

あるいは「万引きもレイプも罪はない」と考えるのは相対的な観点こそ絶対であるという矛盾に陥っている。

 

 

3.ほんの少しでも悪いなら死んで当然だと思ってるのか、お前は

量的な表現に置き換えてみると

「加害者はとても悪いが、被害者もほんの少し悪い」と奴らは主張している。
奴らは「ほんの少しでも悪いなら死んで当然」、「完全な善人以外は殺されるのが自然現象」だと信じている。

理解しなければならないのは完全な善人などこの世にいない。「完全に善の存在以外は死ぬのが自然」だという考えは、「ほんの少しでも悪い者は攻撃していい」という犯罪の正当化につながる。

仮に完全に善の存在以外は全て死んで当然であったとしても、人間ごときに決定する権利はない。

さらに深刻なのは、完全に善の存在を信じていない人間が、「完全に善の存在以外は死んで当然」と信じるなら、あらゆるものに対する憎悪と破壊衝動を生むことになる。

 

 

4.被害者の存在を消すことで加害者はいなくなると信じる勢力は

被害者を消すというより、市民生活そのものを抹殺しようとしている。市民生活を守るための治安ではなく、治安のための市民生活をはく奪しようとしている。

被害者を先に消すより加害者だけを消す方がよりよい世界を作る。

犯罪者を排除するより、弱い被害者の市民権を剥奪する方が安上がりだから攻撃している。

あるいは犯罪者に普遍的な権利を与えたい願望に基づいて、被害者の市民権をはく奪しようとしている。

加害者を消すために被害者を消そうとしてはいけない。加害者を物理的に消せば被害者を消す必要はなくなる。

被害者を消すために加害者を消そうとしているなら、被害者への攻撃を最優先の目標に設定している。


5.被害者を攻撃するお前は加害者と同じくらい悪い

 

 

  「飼育された猫は野生ではないので野生の要素は求めるべきではない」

裏の意味「部分的に干渉しているなら全てを支配すべき」

 

飼育された猫は人工物ではないので人工の要素を求めるべきではない。

・奴らは文明を「自然の完全排除」、自然を「文明の完全排除」誤って再定義している。
野生の要素を完全に剥奪し、手術や監禁による人工の処置を追求することが「飼育」であると誤った再定義をしている。

・文明は自然を調和したものであるという事実を完全に無視し、人工的なものは人工を徹底的に追求し、野生的なものは野生を徹底的に追求すべきだと唱える誤った進歩観は、壊滅的な分離主義を増長し、人間と自然と分断し、人間不在の自然と、自然不在の人間の二極化を推し進め地下室の世界を目指している。

生命の自然現象を完全に文明の敵対物と見なす倒錯した生命観は、人間に内在する野性(セックス・力の行使・飲食)から人間性を消滅せさ、人間性から野性の要素を消滅させる。人間性が消失した野性と、野性が消失した人間性を併せ持つ人間とは無機質な機械でしかない。

 

 

 「猫は野生動物ではありません」

 

猫はぬいぐるみでも、人工物でもありません。

 

・猫は人間にとって唯一の野生と文明の接点だ。人間が野生動物と接点を持てる唯一の方法は餌を上げるときだけ(あらゆる野生動物は餌を上げなければ懐かない)。

・「餌をあげたら動物から野生の要素は完全に剝奪されるので自分勝手に扱っていい」という発想が動物虐待を生み出し、支持し、助長する。

 

 

 

 

 「飼育自体が野生の本能を歪めている」

 

1.監禁、断種は野生の本能を歪めるどころか、野生の本能を抹殺している。

 

2.飼育された猫の野生の本能は歪んでいない。猫は狩りをして、交尾をして、喧嘩をして、自由に外を出歩く。

人間が動物の野生の本能を歪めることはできない。

 

3.飼育とは野生を完全排除することではなく、野生とは人工を完全排除することではない。

 

4.人間が自然環境を破壊し、弱肉強食の成立を妨げたのだから、人間が飼育によって野生を補償しなければならない。

 

5.最も野生の本能を尊重した飼育方法が自由飼いだ。

 

6.少しでも本能に干渉しているなら、本能そのものを抹殺していいことにはならない。

 

 

 「望まれない子猫が増える」

 

1.これも受動態の悪用。正しくは「猫嫌いな人間が望まない子猫が増える」。

一部の人間が望まないだけであり、望まれない子猫など存在しない。

 

2.子猫を望む人間、猫を飼うことを望む人間もたくさんいるので問題ない。

 

 

 「動物の大量殺戮が可哀想だと思う気持ちは理解できるが、我々(保健所)の仕事は感情的になってはいけない」

裏の意味:「はい、お前かわいそ厨、感情論、ガキ、オンナ、よえー、論理派の俺、超男性的でつえー」

 

1.「殺すな」が感情論なら、動物の大量殺戮は理性的で論理的なのか。やる必要のないことを何の疑問も持たず繰り返すお前らこそ幼稚で邪悪な感情に支配されてい

 

2.動物の大量殺戮は知性と品位を持った男のやることではない。

 

 

「断種(避妊・去勢)手術をしないと病気に患りすくなる」

  

 1.動物なので野生状態と比較して安全・快適なら、動物にとっての安全・幸福は達成されている。

メシをもらっている時点で野生状態と比較すると十分に健康である。

無機物のぬいぐるみ状態を基準化し比較対象にすると、呼吸すらも病気のリスクと見なすようになる。

 

2.子孫を残せなかったり、手術失敗で障害を負ったり、死のリスクに晒されるのは病気より最悪だ。

 

3.いかなる理由であっても猫の体を傷つけていることに変わりない。手術の正当化は重傷や重病などの深刻かつ緊急の命の危険がある場合に限られる。人間の恣意的なリスク観点に基づいた手術強制が許されるなら、爪切除手術、四肢切断手術すらも正当化される。

 

4.病気にかかったら治るまで待つか、動物病院に連れて行けばいい。

なお予防接種も本来すべきではない。ワクチンは動物が本来持っている免疫能力、その訓練と成長を阻害し種を弱体化させる。

 

 

  「信念を持って猫を室内飼い(監禁虐待)している」

 

1.信念のためなら何をしてもいいと思っているのか

 

2.相手の自由と生命と幸福より、自分の信念を優先する者は狂人である。

 

 

 「室内飼育など、事故死のリスクを減らす対策を、飼い主がしっかり(誠実に)取る必要がある」

 

1.監禁しなくてもリスクを減らす対策をしっかり取ることができる。

 

2.監禁虐待は誠実な人間のやることではない。曖昧な根拠や概念で監禁虐待を押し付ける不誠実な人間の言うことなど聞く必要がない。

 

3.事故死のリスク自体が高くないので、コストをかけて減らす必要がない。10%未満のリスクを減らすために、全てを犠牲にするのは狂気だ。

 

 

 「多くの人間が『室内飼育が当たり前』という意識になれば、ひかれて死ぬ猫も減っていくはずだ」

 

1.室内飼育が当たり前という意識になれば死ぬ猫も減るが自由で幸福に生きている猫は滅びる。

 

2 .多くの人間が『自分の排他的な考えを常識にしようとするのは野蛮なことだ』という意識になれば、生命を尊重される猫も増えていくはずだ。

 

 

「家畜化した牛や豚は人間によって計画、管理された飼育と繁殖のおかげで絶滅の危険がなくなり種としては過去最大の繁栄をした。動物園の動物達は過酷な自然環境から隔離されたことで淘汰を免れ絶滅を免れ長寿を維持している。人工的な環境に監禁されることは動物にとって幸福だ」

 

自由を犠牲にした過剰な安全と長寿への執着は生命の幸福ではない。

動物の胚やDNAをクローンで大量生産し冷凍し地下シェルターに保存するなら淘汰を免れ絶滅を免れることができる。冷凍睡眠なら何千年も長寿を維持することができるだろうが、それは動物が望んでいることだろうか?生命にとって幸福だろうか?

 

 

「民主的議論を」

 

時間がない。奴らの異常な執念と伝染力、これは奴らが信じる宗教の実践だ。議論が終わる頃には猫は滅亡している。

 

 

 

 「飼っていた鳩が猫に食べられた」

 

1.鳩を閉じ込め、鳩が猫から逃げる能力・機会を奪った人間の責任だ。

 

2.肉食動物の捕食能力と草食動物の逃避能力が最大限に発揮できる環境で行われる動物vs動物は自然現象である。スポーツと同じで再現された公平な自然現象である。

 

 

 「植木鉢が割れた。弁償しろ。そしてアタイの植木鉢を割らせないために猫を監禁しろ」

 

植木鉢より猫の存在の方が伝統と歴史が長い。猫の自由行動は当然予測できる昔からの日常的な半自然現象だ。

猫は昔から外にいるので、猫が触れたら割れるようなものを作ったり設置する側に問題がある。この状況はお前が作り出した。

当然予測できる有史以前から続く半自然現象に対して植木鉢を固定するなどの予防策をとらなかった人間に責任がある。

最近できた人工現象は昔からの半自然現象に優先しない。昔からの半自然現象、環境耐性を前提にしないで製造した人工現象自体が設計ミスでしかない。水道水で溶けるコップを製造して水質に文句をつけるようなものだ。

100円程度ならお情けで弁償してやってもいい。物損は金銭で回復できるが、動物の生命を金銭で補うことはできない。

だが傲慢にも、植木鉢のために猫の掛け替えのない生命・自由・幸福の剥奪を命令する権利はお前にない。

掛け替えのない生命・自由・幸福より自分のモノや感情を優先する人間ほど幼稚で不道徳なものはいない。

 

 

「何もかもエゴだ。猫を虐待するのも猫を守るのも人間のエゴだ。エゴは悪い」


沈黙、逃避、無抵抗、思考停止、無気力、無関心、悪への隷属こそが人間が持つ最悪のエゴである。